「古武士(もののふ) 第5話 真の柔道」
「古武士(もののふ) 第5話 真の柔道」
2014年3月21日
2018年のある日
香港 現在朝の3時。
先ほど気が付いたのだが明日21日金曜日は「春分の日」休日だ!
今日木曜日は10時から香港カオルン・サイドでのアポイントが入っている。午後もスケジュールがびっしり詰まっている。明日はシンガポール。今日中に書きあげないと流せないので、今慌ててメルマガを書いている。
一昨日まで韓国にいたが。韓国では30年来の友人二人と 大デイベート大会をやってしまった。あくまでも歴史観の違い、机を叩きながらの大劇論となった。
相手はソウル大学卒の2人兄弟。
長男はコロンビア大学も出ている英語の達人で72歳。そして弟は68歳。
彼らの父上は東京大学卒業後、ソウル大学で史学の教授を務めていた超エリート。しかし朝鮮動乱で北に連れて行かれてしまった。残された母上は4人姉妹の末っ子で、長姉は元副大統領夫人、次姉が元副総理夫人。
そんな背景をもっているせいか彼らそろって歴史を熟知しているかの如く振舞う。
日本の広島原爆による死者10万人を嘘だと言う。
尖閣、竹島についても全くもって意見が相反する。
だがそれに関して僕はそれ以上はあまり語らないようにした。
ただ頑として譲らなかったのは、歴史は作られていてメデイアは必ずしも正しい事を報道していないのだという事だ。
それは両国に言えることであって、韓国の教育報道だけが正しいのではないという事だ。隣国である韓国・中国・日本が仲良くしなくてどうなるか!!!何処の国がそれを阻止しているかに目覚めるべきだ!と。表向きの報道では仲良くすべきと言いながら、その3国が仲良くなると存在すら危うい国が有る。
24,000人の米兵がいる韓国が独立国と言えるか!?
35,000人の米兵がいる日本が真の独立国家と言えるか?
もっと別次元で 真実を見ようではないか、と一方的に押し切ってしまった。
ここまで言ってしまえるのも真の友人だから許される事である。ありがたい事だ。
僕もこの年齢になってやはり歴史は作られるという事を実感している。
昨今、「道上さん、最近の柔道はどうなっているの?」「柔道はおかしいんじゃないの!」と言われる。その度に「皆さんの思い描いている柔道は戦前で終わっているんですよ。」と答える。
嘉納治五郎は戦前日本にオリンピックを誘致するためヨーロッパに渡りピエール・クーベルタン男爵に 要請する。帰路の途中カイロから乗船、船上で帰らぬ人となった。ピエール・クーベルタンに 柔道をオリンピックに柔道を種目にしてはの問いに、嘉納治五郎は柔道は武道で在ってスポーツでは無いときっぱり断った。 その後、次男の嘉納 履正がGHQによって武道が禁止されたのちに柔道はスポーツだと言って陳情。 柔道が弱かった宣伝の講道館だから、良いのではないかと、GHQは認可したと言われてる。
シドニー・オリンピックでドゥイエ対 篠原戦の試合を審判の判定ミスと日本国は断定した。しかしその数年前1994年 全日本選手権の決勝で吉田秀彦は相手の再三の反則関節技をかけられ、肘に支障が出て、判定の結果試合に敗れてしまった。
最近まで日本全柔道連盟の役員だった人も当時副審にあたっていたが、試合後「あれは反則技ではありませんか」の私の問いに「いや、あれは反則ではありませんと答えた。(柔道を知らないのだ)」横でこの話を聞いていた父は何と思っただろうか?
しかし大きく腫れた肘を抱えていて 抗議しなかった吉田は立派だった。
それに対してドゥイエ・篠原戦の時はどうだったか?日本の監督は抗議に大騒ぎ。みっともない。自分たちで作った判定ルールではないのか。柔道を知らない審査員のなんと多い事やら!
だがそこでも「いや僕が弱かったから負けた」と言った篠原選手の一言に救われた。(勝っているはずのポイントを横目に、自分が点数で負けている不可思議に気づき慌てて技をかけ続けたにも関わらず勝てなかった自分を評しての事だった)
柔道を作ったのは講道館と言われている。しかしそれは歴史であって真実ではない。講道館創始者 嘉納治五郎は起倒流柔術に影響を受けた。起倒流柔術では 戦前既に柔道と公言していた。当時116の流派が有ったなか、講道館は嘉納治五郎が作った、ただの町道場だった。それらすべての流派を統括していたのが武徳会だった。
この武徳会は終戦時に公職追放と共に消えて行った。いや潰された!
アメリカが恐れた日本の武士道精神。
戦後全ての武道が潰されていく中で 講道館だけが復活した。
何故か?現在の柔道に対する無念は誰が導いたのか?
これ以上の独り言は文字に出来ない。
ただ海外から日本を見ていた父、道上伯の無念が身に染み入る様に伝わって来る。
次回はその潰された武徳会と大日本武道専門学校について語らせて下さい。
【 道上 雄峰 】 幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。 |