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古武士(もののふ) バックナンバー




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4月8日配信「古武士(もののふ) 第6話 武専」

4月1日配信「古武士(もののふ) 第5話 真の柔道」

3月25日配信「古武士(もののふ) 第4話  逃亡の後処理」

3月18日配信「古武士(もののふ) 第3話 夢はアメリカに」

3月11日配信「古武士(もののふ) 第2話 小学生時代」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ) 第6話 武専」


「古武士(もののふ) 第6話 武専」

2014年3月28日



道上伯の人格、生き方を表現した場合、避けて通れないのが武専の存在です。
その背景を今回書かせて下さい。─史実を。

明治維新後(1868~1912)、廃刀令が発せられ、武士階級の優越性が失われて一時は武術そのものの価値も失われたかに思えた。しかし明治10年(1877年)西南の役で苦戦する政府軍を武術家が助けた事によって、武術の価値が見直されるようになった。

さらに明治27年(1894年)甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに日清戦争が起こると再び国民の間に武道への関心が高まって行った。

そこで武道を奨励し武徳を涵養する事を目的に設立されたのが大日本武徳会だった。設立の賛同者には伊藤博文(1841~1903)(内閣総理大臣)、山縣有朋(1838~1922)(前枢密院議長第一軍・軍司令官)をはじめ13名が名を連ねた。
時の政府の全面支援を受け、総裁には小松宮彰仁親王(1846)、会長には渡辺千秋京都府知事(1843~1921)、副会長には壬生(1853~1906)基修平安神宮宮司が就任した。大日本武徳会は講道館を含む各流派(116の流派)を統括し、日本の武士道精神反映させるため、各都道府県に武徳殿を設けた。

その大日本武徳会によって大日本武道専門学校は設立され、明治44年には柔道剣道を正課として開校した。

武専は京都平安神宮の中にあった。
全国から武道の俊英が集う武専の学生は礼儀正しく、弱い者に優しく、まさに正義の味方として京都市民から尊敬された。

その厳しい教育は校外の生活にも及び、やはり弱者に思いやりが有り、その上動作がきびきびしていて皆のあこがれの的であった。見ていて気持ちがいいと京都市民からは評判が高く、しかも武道に関してはいずれ劣らずの一騎当千のつわものばかり。
武専の学生が歩いてくると、地回り(ならず者)も道をあけたと言う。

とにかく武専は厳しい学校であった。
実技における稽古の厳しさはもちろんのこと、試験に関しては100点満点の平均60点以上でなければ落第(落第は一度だけ認められていた)で追試は皆無。一科目でも3分の1以上の授業の欠席で、全試験の受験資格なし。2回続けての落第は即、退学を意味する。

伯の時は定員20名のところ受験者は560名。新学期でのスタートは上級から落第してきた者(4名)を含む24名だった。それが卒業時には11名(卒業式に一人死亡も含む)となり、残りは途中で死者、脱走、退学、落第となった者が十数名だったという。 

卒業と同時に旧制中学の体育、国語、古文、漢文の教員免許が与えられ、後多くの者が天皇から教師号を授与される。武科のカリキュラムには武道と武道史に分かれ その内武道では理論、型、実習が4年間の必修となる。武道史は各流派、武道全般の変遷発達を学び週16時間の授業。文科では修身、教育、国語、古文、漢文、歴史、生理衛生、心理、随意科目として英語があり、伯は週40時間の講義を受けていた。

夏冬春の休みを除けば週56時間の授業(土日も授業有)となる。武専でのあまりにもハードな稽古の為、体をこわすもの、不幸にも命を落とすもの、脱落するものが多かった。専門家養成学校だった為、武道もさる事ながら教師としての品格、生き方まで重視された。正課ではないが整体術、整復術・・・ 今は無い多くの学びが有った。

祝日、夏休み、冬休みは柔剣道の大会が開かれ遠征が行われる事が多かった。何処の遠征でも負け知らず。アマチュアとプロの戦いだった。伯も町道場であった講道館に何度か試合を申し込んだが、いつも断られた。

古式の形(かた)、投げの形、殆どの柔道の形は武専の先生の考案によるものだ。ある日柔道の歴史上もっともポピュラーな「何某十段(空気投げで有名)」と武専教師、田畑昇太郎との天覧試合があった。田畑はその(空気投げで有名な)相手が立ったら投げ、また立ったら投げ、で、とうとう誰も何某十段が立っている姿を見ることはできなかったそうだ。宣伝の講道館。どういう訳か、戦後は講道館のみが残った。

戦後アメリカが公職追放と称し、武徳会を潰したのは当然であり、もっともアメリカが恐れた日本武士道の真髄である。

最近、「道上さん柔道は如何なっているの?おかしいんじゃないの?」皆さんのイメージとは裏腹に、精神共に本当の柔道を教えてくれる先生がいないのが現在です。

しかし武専と言うイメージから、硬直し右傾化した学校に思われがちだが、実際は他の学校に比べ、はるかにリベラルで自由な空気にあふれていた。後に伯が最も科学的かつ理論的に教える事が出来たのは武専によるところが大きい。長幼の序にうるさい武専では、1年の時には許されなかったが、2年からはインパネス(和服用コート)を羽織ることが認められた。道上伯が大変お洒落だったことも窺える。

この写真はTVドラマ「仁」の原作者、村上もとかさんが書かれた本「龍(ロン)」からの抜粋である。このコミックはかなり面白く、本もマンガも全く読まない僕が一挙に全17巻まで読んでしまった。年齢など関係なく読めるコミック本です。
ぜひ読んでいただきたい。お薦めです。

「龍(ロン)より」

「龍(ロン)より」

来週は武専の鬼才伯。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第5話 真の柔道」


「古武士(もののふ) 第5話 真の柔道」

2014年3月21日



2018年のある日

香港 現在朝の3時。
先ほど気が付いたのだが明日21日金曜日は「春分の日」休日だ!
今日木曜日は10時から香港カオルン・サイドでのアポイントが入っている。午後もスケジュールがびっしり詰まっている。明日はシンガポール。今日中に書きあげないと流せないので、今慌ててメルマガを書いている。

一昨日まで韓国にいたが。韓国では30年来の友人二人と 大デイベート大会をやってしまった。あくまでも歴史観の違い、机を叩きながらの大劇論となった。

相手はソウル大学卒の2人兄弟。
長男はコロンビア大学も出ている英語の達人で72歳。そして弟は68歳。

彼らの父上は東京大学卒業後、ソウル大学で史学の教授を務めていた超エリート。しかし朝鮮動乱で北に連れて行かれてしまった。残された母上は4人姉妹の末っ子で、長姉は元副大統領夫人、次姉が元副総理夫人。
そんな背景をもっているせいか彼らそろって歴史を熟知しているかの如く振舞う。

日本の広島原爆による死者10万人を嘘だと言う。実際には20万人。
尖閣、竹島についても全くもって意見が相反する。
だがそれに関して僕はそれ以上はあまり語らないようにした。
ただ頑として譲らなかったのは、歴史は作られていてメデイアは必ずしも正しい事を報道していないのだという事だ。

それは両国に言えることであって、韓国の教育報道だけが正しいのではないという事だ。隣国である韓国・中国・日本が仲良くしなくてどうなるか!!!何処の国がそれを阻止しているかに目覚めるべきだ!と。表向きの報道では仲良くすべきと言いながら、その3国が仲良くなると存在すら危うい国が有る。

24,000人の米兵がいる韓国が独立国と言えるか!?
35,000人の米兵がいる日本が真の独立国家と言えるか?
もっと別次元で 真実を見ようではないか、と一方的に押し切ってしまった。

ここまで言ってしまえるのも真の友人だから許される事である。ありがたい事だ。
僕もこの年齢になってやはり歴史は作られるという事を実感している。

昨今、「道上さん、最近の柔道はどうなっているの?」「柔道はおかしいんじゃないの!」と言われる。その度に「皆さんの思い描いている柔道は戦前で終わっているんですよ。」と答える。

嘉納治五郎は戦前日本にオリンピックを誘致するためヨーロッパに渡りピエール・クーベルタン男爵に 要請する。帰路の途中カイロから乗船、船上で帰らぬ人となった。ピエール・クーベルタンに 柔道をオリンピックに柔道を種目にしてはの問いに、嘉納治五郎は柔道は武道で在ってスポーツでは無いときっぱり断った。 その後、次男の嘉納 履正がGHQによって武道が禁止されたのちに柔道はスポーツだと言って陳情。 柔道が弱かった宣伝の講道館だから、良いのではないかと、GHQは認可したと言われてる。

シドニー・オリンピックでドゥイエ対 篠原戦の試合を審判の判定ミスと日本国は断定した。しかしその数年前1994年 全日本選手権の決勝で吉田秀彦は相手の再三の反則関節技をかけられ、肘に支障が出て、判定の結果試合に敗れてしまった。

最近まで日本全柔道連盟の役員だった人も当時副審にあたっていたが、試合後「あれは反則技ではありませんか」の私の問いに「いや、あれは反則ではありませんと答えた。(柔道を知らないのだ)」横でこの話を聞いていた父は何と思っただろうか?

しかし大きく腫れた肘を抱えていて 抗議しなかった吉田は立派だった。
それに対してドゥイエ・篠原戦の時はどうだったか?日本の監督は抗議に大騒ぎ。みっともない。自分たちで作った判定ルールではないのか。柔道を知らない審査員のなんと多い事やら!

だがそこでも「いや僕が弱かったから負けた」と言った篠原選手の一言に救われた。(勝っているはずのポイントを横目に、自分が点数で負けている不可思議に気づき慌てて技をかけ続けたにも関わらず勝てなかった自分を評しての事だった)

柔道を作ったのは講道館と言われている。しかしそれは歴史であって真実ではない。講道館創始者 嘉納治五郎は起倒流柔術に影響を受けた。起倒流柔術では 戦前既に柔道と公言していた。当時116の流派が有ったなか、講道館は嘉納治五郎が作った、ただの町道場だった。それらすべての流派を統括していたのが武徳会だった。
この武徳会は終戦時に公職追放と共に消えて行った。いや潰された!

アメリカが恐れた日本の武士道精神。
戦後全ての武道が潰されていく中で 講道館だけが復活した。
何故か?現在の柔道に対する無念は誰が導いたのか?

これ以上の独り言は文字に出来ない。
ただ海外から日本を見ていた父、道上伯の無念が身に染み入る様に伝わって来る。


次回はその潰された武徳会と大日本武道専門学校について語らせて下さい。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第4話  逃亡の後処理 」


「古武士(もののふ) 第4話 逃亡の後処理」

2014年3月14日



愛媛県の八幡浜にほど近い、川之石から山越えをして安太郎と伯は
ひっそりと帰宅した。 ひっそりと、と言っても町では大騒ぎとなっていた。
町のヒーローが突然失踪したのだ。

帰ったからと言ってそのままではいられない。いろいろと後始末が必要だ。
まずは八幡浜高校へと出向く。 処分は当然の「退学」である。
その足で柔道部へ行く。伯を恐れる部員たちは伯が抜けることに対し何も言えなかった。
ただ、団体戦のみだった当時、強い「大将」が抜けて栄光の夢は途絶えた。

しかしボート部ではそうは行かなかった。
何人かで漕ぐボートはバランスを考慮して構成されている。
一人欠けるととんでもなく不利になっていくのだ。
部室で十数人の部員全員にぼこぼこに殴られた。
伯はなされるままじっと我慢した。

伯はその夜ビールを2ケース(40本)飲んだが酔えなかったと言っていた。
酔う酔わないの問題ではなく、よくそれだけの量が呑めたなあ~と愚息は聞きながら思った。
ただ嘘をつかない道上の事だ。本当のことだろう。そしてよほど悔しかったのだろう。

愚息の雄峰の逃亡はスウェーデン経由で日本に帰る予定だったが、
パスポートに20歳未満は父親の許可が必要であった為日本に帰国出来なかった。

母の居たパリに1日滞在したのちリセ(中高等学校)の紹介者ボルドーのRobert家 (ロベール)家へ挨拶に行った。その足で道上に森に連れていかれ、30分父伯の両手で叩かれた。顔は赤く染まり、紫色に腫れ、血が滴り落ちていた。
父伯に会うと必ず叩かれていた雄峰なので叩かれることには慣れていたが、とにかく父が凄く怖かった。もの凄い形相で「どうしようもない愚息」にもの凄く腹を立てていた。
道上の一番弱い所を突かれた。そうだ道上の顔を潰したのだった。

そのあとリセを紹介してくれたRobert さんの所で3日間静養した。
腫れた顔で帰って来た愚息にロベールさん達は特に驚きもせず当然だと言わんばかりの目線だった。道上伯の息子がタダで済むとはだれも思っていなかった。
しかもビールに代わるものは用意されなかった。
ところがその数週間後、雄峰は国家試験にまぐれ合格した為、とうとう日本に帰る許しが出た。実際はAlain Robert (ロベール家長男アラン)が試験会場の窓側で口パクで答えを教えてくれていたおかげだった。

父伯の話に戻そう。

八幡浜高校を退学になった後、吉田中学(現高校)に編入することとなる。
前から伯の柔道の実力に目を付けていた赤松先生が特別配慮で編入を成功させる。
彼は伯の13歳の時の昇段審査から目を付けていたらしい。

編入試験には、赤松先生の息が掛かっている各学科の先生たちが当日そばに付いていて、答えがわからない問題は、そっと正解部分に指を差し又は正解を指で書き答えを教えてくれたそうだ。こうして吉田中学柔道部を強くしようとする赤松先生に教授される事となる。

それからは柔道の猛練習が始まった。
赤松はただの柔道家ではなかった。日本最強の大日本武道専門学校師範栗原先生の弟子でもあったため、地方では珍しい柔道実力者だった。

伯は赤松先生に立っては投げられ立っては畳に投げつけられ、先生の千変万化の立ち技で畳にのめり込むかのごとく何百回も投げられ、絞められ、抑え込まれたそうだ。

いささかの自信が有った伯も自分がいかにまだまだ未熟かと言う事を思い知らされた。

普通科から商業中学への編入のため今まで習った事のない科目が多く、猛勉強も余儀なくされた。夜はろうそくを立てての猛勉強。
ペン先を喉に当て、眠るとペンが喉に食い込む様にして眠気と闘ったそうだ。

当時の柔道を少し説明させて頂くと、剛腕スポーツ選手のJUDO ではなく、形(かた)の勉強とともにいかに勝つかという試練が有った。当時は個人戦というものがなかった。俺が勝った!どうだ参ったか!などと言う今の勝利アピールなど無い。
個人顕示ではなくひたすら団体戦の勝負のみであった。

立ち技だと極端な実力差が無い場合、その日の体調運に左右される場合が有った。だから中学、高校では実力がいかん無く発揮する寝技を徹底的に鍛え上げられ、猛練習に励んだ。寝技は練習がものを言う。

高校生時代 現在の様に柔道を知らない審判員の多い昨今では、すぐに「待て」や「指導」などと言う訳の分からない判定が下るが、寝技ほど実力を分けるものは無い。現在は寝技が出来る日本柔道家は少ない。

当時皆地元の期待を背負い、威信をかけて戦っていた。

道上伯がインターハイ予備の団体戦で当たった大将戦の相手が「はじめ」の声が掛かったと同時に逃げ回った。

あげく当時2本取らなければ勝ちに成らなかった中、時間稼ぎに俯せに寝た。攻めあぐんだ伯はその相手を絞めに行った。
首に手を差し入れたその指に相手はかみついた。血が滴り落ちてきたため伯は思わず手を離した。技は解けた。

相手は必死の形相で「おらも母校の為に戦っているのじゃ。勘弁してくれ。こらえてくれ。おらも責任が有るのじゃ」と目を潤ませ、低い声でそう言った。

この試合はこうして引き分けに終わってしまった。
そしてこの年は例外的にこの県から二つの学校がインターハイに出る事になった。


次回は「真の柔道」を。




【 道上 雄峰 】
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「古武士(もののふ) 第3話  夢はアメリカに」


「古武士(もののふ) 第3話 夢はアメリカに」

2014年3月7日



寂しがりやの母リキは、アメリカにいる長男亀義に結婚相手を用意したから帰って来いと手紙を書いた。亀義22歳、道上伯17歳の時だった。

大金と沢山のダイヤを持って帰って来た亀義に実はろくな結婚話は用意されて居なかった。がっかりした亀義は毎晩大酒を食らって、持って帰ったダイヤは バーの女どもにばら撒いた。

それを見ていた弟伯はよほど亀義が良い暮らしをしているのだろうとアメリカの生活に夢を膨らます。

八幡浜の若者は京阪神に職場を得て働きに行く者も多かった。
しかし伯はそういう狭い世界に閉塞する事を嫌い、広い世界を縦横に駆け巡って活躍したいと祈念する。

後年、三男伊勢春がアメリカへ行きたいと兄亀義に言ったところ、お前などが通用する世界ではないと一喝されたそうだ。
伊勢春は軍で上官を日本刀で斬り付けたほどの猛者だった。 それ程の男を通用しないと言った亀義は、いかに伯の男を認めていたのかが窺える。

日本で思い残すことのなくなった兄亀義は帰国10か月後に再びアメリカに旅立った。
兄がアメリカに旅立つ前に伯は

「兄ちゃん、俺もアメリカに行きたい」

「学校はどうするんだ」

「学校なんかどうでもいいんだ。俺も早く兄ちゃんの様に、外国で稼ぎたいんじゃ」

「それなら、おれが ここを出発する時に一緒に神戸へ行こう。おれは旅券の関係で神戸から出発しなければ行けないけど、お前は神戸か大阪で貨物船を見つけろ。船長が好い人だったら乗せてくれるはずだ。」

「そしてシアトルに着いたら、誰でもいいからアメリカ人に『プリーズ・コールミー・タクシー』と言え。」タクシーが来たらこの紙を見せろ。そうしたらタクシーが俺の所まで連れて来てくれるから。」

伯は心の中で「プリーズ・コールミ・タクシー」と何度もつぶやいた。

しかし4月に神戸に着くや否やまだ子供っぽさの残る伯は警察に不審に思われ、家出少年として補導された。このままではアメリカ行きの夢が叶わなくなる。
捕まった伯は警察官の隙を窺ってまんまと警察署からの脱出に成功した。

港神戸を逃げ出してからは場所を変え、大阪の船宿に潜んで 好い船長探しに明け暮れた。
7月になってやっと伯を雇ってくれる船が見つかった。 甲南丸という9千6百トンの貨物船であった。

主に材木を運搬し、国内のあちこちを回る船だが積み荷によってはアメリカにも行くと言われた。

三度目の航海の時、横浜から広島を経由してオーストラリアのシドニーへ行く。
その航海が終われば 今度はいよいよアメリカへ行くという事になった。
やっとアメリカへ行ける。
横浜の桜木町で夢を膨らませていたところ一通の電報が届いた。

それは伯父(母の兄)からで「チチキトク・スグ・カエレ」とあった。
そう言えば伯父に居場所を教えていたのだった。帰るしかない。その旨を船長に伝え、2~3週間したら船は広島に立ち寄るからそこで再び合流しようという事になった。

神戸から川之石(愛媛県八幡浜の隣町)の寒々とした風景が広がる船着き場についてみると、そこには危篤であったはずの父安太郎が立って居た。
伯はここで計画の終焉を悟った。

蛙の子は蛙と言うが、奇しくも愚息雄峰がArcachon の高等学校を飛び出し、
フランスから帰国しようとしたのも同じ17歳だった。
違いは狭い日本から脱出しようとした父伯、
アイデンティティを求め日本へ逃げ帰ろうとした愚息雄峰、であった。

来週は逃亡の後処理です。




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「古武士(もののふ) 第2話 小学生時代」


「古武士(もののふ) 第2話 小学生時代」

2014年2月28日



ひ弱な幼年時代とは打って変わって、道上伯は道上家のDNAを取り戻すかのように鍛え上げられて行った。

父である道上安太郎のアメリカの出稼ぎの間は母リキと二人きりの事が多く、その間は苦労を知らないで育った。祖父母の面倒も率先して手伝い、母リキに溺愛されて三男伊勢春が生まれてから更に頼られていった。伯は村では評判の孝行息子であった。伯が10歳の時、兄亀義が15歳で渡米する。

父安太郎は最初の5年の出稼ぎで得た収入で家を建て、次の5年後には畑を次々に買戻し、最後の5年で得たものは老後にたくわえた。

急勾配の斜面ただ当時の土地はほとんどが山を開墾して作ったため、土壌は石ころが多く、雨が降るとぬかるんで路肩が崩れてしまう。急勾配の斜面を蛇行するような農作業用の細道。

この細道には崩壊を防ぐため石垣を作って行った。川辺で岩を割り、その割った岩を苔で滑りやすい川から背中に背負って運んで来る。そして畑でその岩をハンマーで割って石垣を作る。このような作業で伯の強靭な足腰が出来上がるとともに肩や背筋が強くなるのは当然の事であろう。

学校から帰って家で勉強机に向かおうものなら、父安太郎から机ごと教科書や本などを二階の窓から捨てられたそうだ。家から帰ると真っ先に山に登らなければならなかった。仕方がないので暗記物の宿題などは、学校の行き帰りで紙札に書き、暗記しながらその都度飲み込んだそうだ。

天秤棒天秤棒を肩に掛け、荷物無しで登るのでさえ困難な急勾配を走って登り、みかんを積んで走って降りる。

当時の小学校では相撲が正課だったが体育の先生と相撲を取るのは四年生の伯一人だった。相撲大会に出ても全戦全勝。地方大会に出た時も小学校五年生にして、六年生ばかりの大会で初出場初優勝してしまう程だった。

中学に入ると(現高等学校)一人だけ際立った動きをする伯の才能を見抜いた柔道教師は勝手に彼の名を柔道部に登録してしまう。 さらに伯の意に反して英語教師がボート部に名前を登録してしまった。

伯13歳、まだ柔道を本格的に始めて半年のころであったが早くも昇段審査を受ける。 当時柔道の昇段試験は筆記、型、試合と有ったが、試合は今の様なポイント制ではなく、二本を取らなければいけなかった。その時の出場者(殆どが20~30歳)8人全員を抜き(全員に勝ち)、筆記も型もほぼ満点で申し分無かったが、なにぶん年齢的に前例の無い事でもあり、年が若いと言う事で結局初段は貰えなかった。

当時地方では初段をもらえる事は大変名誉な時代だった。
翌々年同じくすべてに完璧を期した時はさすがに反対する者も居なく15歳で初段を取った。しかも30年以上に及び、この少年の記録は破られる事が無かった。

ボートに柔道をこなし、急激に体力をつけていってもう商業学校で彼にかなう者はいなかった。商業高校三年で二段をとり、すでに柔道教師も歯が立たない怪物に成っていた。

道上伯が強かったのは 父安太郎の生き方によることが多かったと思われる。

「不言実行」贅沢には無縁だった父親だったが、学校・神社などに寄付塔には必ず道上安太郎の文字が刻まれていた。

伯は小学校四年の時先生に「道上安太郎は 君のお父さんかね?」と聞かれたのでそうですと答えたところ「偉い人だなあ」と言われたそうだ。

校舎の石碑に刻まれている道上安太郎百円の寄付を見ての事だった。

いつの世も 立派な父親を持つと 息子は大変だ。


次回は「夢はアメリカに」です。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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