外交官 第16話 現場に行かなきゃわからない(その2)フィリピンでは全国的な蜂起は起こらない?
全日本柔道連盟 特別顧問
東大柔道部OB
丸の内柔道倶楽部
第16話 現場に行かなきゃわからない
(その2)フィリピンでは全国的な蜂起は起こらない?
フィリピンに勤務したのは1979年から2年半近くであるから、随分古い話になる。
当時は長期政権を維持したマルコス大統領の全盛期を過ぎた頃である。強権を誇った大統領だから批判や抵抗も多いのは当然だ。首都マニラでは野党が常にマルコス批判を展開し、市民活動家も反マルコスの集会を開いたり、それに関連していくつかの事件なども起こった。政策が民主的でないとの海外メディアの非難も常にあった。
特に外国メディアは、このままでは各地に大統領への反発が広がってゆき、いずれは全国的規模で国民の反乱が起きるだろうという観測も活字になって欧米で報道されていた。マルコス大統領はこうした「西側プレス」の報道に苛立ち、外国プレスは事実を見ていない、偏向しているなどと批判した。
大使館で働いているので、大統領や政府高官との公的な接触も多いが、ときどき密かに野党の党首や幹部、市民運動家たち、さらには市井の状況に詳しいカトリック教会指導者にも会って情報収集した。マルコス批判の野党の指導者たちは声を潜めて「今に凄いことが起こるぞ」などと特ダネ的な情報を伝えてくれたりもした。
マニラで生活している実感からすると、政権は安定していてどうも崩れそうにない。いったい実際の情勢はどうなのか。それを分析するのも大使館の仕事である。
未知の場所を見てまわるのが大好きな私は例によって、ときどき週末や休暇を利用してあちこちを見て回った。まともな宿泊所もないようなところや、食べる物の衛生状況が心もとないところもあるが、いろいろ見て回れば国の状態がわかるし、とても面白い。
「全国的に暴動が起きる」などという観測を耳にすると、どうしてもそれを確かめてみたくなる。そこで今度は大使館内の手続きをとって、国内事情視察のため他の島々への出張を申請し許可された。
フィリピンは7000余りの島々からなる国である。最大のルソン島でさえ、道路などのインフラが悪くて行けないところもある。例えば、前年の年末年始の休暇は、ルソン島の南西部に白砂の美しい海岸があるという情報をもとに、その小さな村に行って過ごした。
マニラから車で近くの海岸に辿り着いたが、その美しい砂浜に行くには道路がズタズタで車が通れない。そこで近くで遊んでいた子供たちにお駄賃をあげて、3~4日間しっかり車の番をしてもらうように頼んだあと、小さな舟を雇って海岸沿いに移動して目的の砂浜に着いた。白砂のとても美しい小さな浜だった。金持ちらしい人のヨットが2,3艘沖に停まっていた。
「いいところへ来た」と喜んだが、そこには電気もない。ホテルといえるものもないが、丘の上に蚊帳を吊って眠れる家まがいの建物があった。ホテルもないどころかレストランもないが、浜辺に魚などを焼くカマドみたいなものがあり、そこで調理できる。
聞いてみると、魚などの食材を売ってくれる村人もそのあたりにいた。新鮮な魚を村人から買って自分で焼いて食べてみると実に旨い。コメのご飯も近所の付近の人から調達した。
電気もないので丘の上の宿舎に行くには松明が足元を照らす小径を辿っていくのである。夜は満天の星が輝く空を眺めて蚊帳の中で眠る。蚊に刺されないように気を付ける必要はあるが、実にロマンティックである。
電話もない。もちろん携帯電話が登場する遥か前のことだから、マニラとの連絡は不可能である。緊急事態が起こったらどうなるのか。私は総務担当一等書記官だったから、今だったら、危機管理上問題ではないかとのお叱りを受けるだろう。でも、休暇を取っての旅であるし、マニラには当番の同僚はいるから大丈夫なのだ。
どこからも連絡の来ない孤立した海岸。そこで世事に煩わせられず、ゆっくり泳いだり、海岸を走ったり、浜辺をスケッチしたり、来年のことに思いを馳せたり、砂浜で地元の食材での自炊。実に貴重で優雅な時を過ごした。
【White Sands, Batangas, Phillipines (1979.12.31.)】
美しい砂浜のある陸の孤島の話でちょっと脱線したが、それはフィリピンの当時の状況の一端を物語るものでもある。
話を本題に戻すと、国内出張の許可を得ての地方視察は有益であった。「全国的な反マルコス運動は起きるのか」というテーマを念頭に、いくつかの遠隔の島々を含め視察して回った。
フィリピンは貧しい国である。(マニラには当事から近代的な高層マンションや5つ星のホテルや高級なオフィスがあったが、全国的にはとても貧しい。この国のガバナンス(統治の形態)が悪いので今日でも貧富の格差が大きく、貧しい層に経済発展の恩恵はなかなか届かないのだろうと思う。)
それはともかく、島々を回るといろいろなことがわかる。
人々は貧しいことは貧しいが、実に幸せそうに生活していることに印象付けられた。どこに行っても、碧いきれいな海が見える。白い雲が動き、海風が心地よい。人々は、手作りなのだろう、木を組み合わせて骨格を作り、周りをヤシで葺いた高床式の家に住んでいる。子供たちは古くて破れかけたようなパンツ1枚で、裸足だ。日に焼けた顔や上半身はとても健康そうで明るい。家の周りには、豚や鶏が放し飼いされて飛び回っている。子供がそれを追いかけたりして遊ぶ。
一家に子供たちは数人いるのが普通だが、高床式の「家」で家族全員が雑魚寝をして過ごすのだそうだ。孤島では周りには店や仕事場のようなものは見当たらない。
何軒かの家のお父さんかお母さんに、「どんな生活をしているのですか」「どのように生計を立てているのか」などと聞いてみた。おおかた次のような答えが返ってきた。
ヤシの実をとってきて、先ずそのジュースを飲む。栄養が豊富だ。それを割って、内側の白い油の部分を掻きとって集める。溜まると南京袋に詰めて村で売ってくる。ご存じの通りこれはヤシ油の原料になる。外側の殻の部分は割って乾燥させて煮炊きの燃料にする。ある程度の金が必要な時は、放し飼いにしている豚か鶏を村で売って、その金でコメその他の必需品を買う、などなど。バナナなど果物は豊富で、手軽にどこかでとって来れる。魚は釣るか小舟で自ら獲ったり、あるいは漁師から分けてもらうか買う。
なるほど、気候が良いから寒さもないし衣料もさほどカネはかからない。履物だって村の日常生活では裸足かゴム草履である。コメが買えて魚などそれなりの食糧が手に入るので餓死することもなく、家族はのんびりと結構幸せそうに生きている。
【フィリピン・Ormoc 風景(1980.10.22~23.)】
大きな島には舗装道路もあるが、島々を結ぶ橋などはない。7000以上もある島で構成されるこの国においては全国を貫通する道路はなく、フェリーもごく一部にしか就航していない。当時はGPSなどの通信手段もないし、いわんやインターネットもない。
一部で無線は使えても通信は全国的には島々によって分断された状態にあった。すなわち、交通や通信手段が海によって妨げられていたので、政治的な反マルコス運動がマニラを司令塔として全国的に連絡し合って展開することは到底できないことが島々を回って実感した。
おまけに多くの離島では、人々はある程度「食」も足りて貧しくても平和に暮らしている。全国的に団結して反政府の反乱がおきるとは到底思えず、この旨を出張報告に入れて大使館を通じて外務省に送った。
幸い、今日に至るまで全国規模の反政府運動は起きていない。
現場を見ることは、現実的に物を見るのに役立つと今も思っている。
【小川 郷太郎】 現在 |
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