私と柔道、そしてフランス… - 第四十九話 過酷な営業活動、余暇は柔道-
早大柔道部OB
フランス在住
- 第四十九話 過酷な営業活動、余暇は柔道-
昔も今も、これらの理化学分析機器は非常に高価です。たとえばその当時、日本電子の最主力製品は大型電子顕微鏡「JEM-100C」でしたが、そのフランスでの価格は、なんと、約38万フラン(税抜き・約2千8百万円)!現在の貨幣価値に直すと、
約1億9600万円(注1)といったところでしょうか!?
これだけの予算を持ち、メーカーからのアプローチを待っている客などは皆無に近く、まれに予算申請中の研究施設に出会うことがあっても、これは偶然の賜物と観念して、地道に各種研究機関を訪れることにしました。そして、そこでの出会い、情報収集を元に、この地域の市場開拓に努めました。
とはいっても、これだけ広い領域をカヴァーして、一人で全製品を担当するとなると、“飛び込み”や“口コミ”に頼るこれまで通りのセールスには限界があります。そこで、域内の公立大学や前述のCNRS(フランス最大の政府基礎研究機関)などに、ジェオル(JEOL)の製品カタログを送付することを手始めに、DM(ダイレクト・メール)作戦も実施しました。この複合作戦が功を奏し、後々に好い結果を生むことになります。
私の担当地域は、西から東に トゥールーズ→モンペリエ→マルセイユ→ニース と連なっており、道路で結ぶと740㌔にもなります。ほとんど一般国道です。今週トゥールーズなら、来週はマルセイユ、たまにニースまで足を延ばすといった具合で、毎週3,4泊します。そして、残りの日を地元モンペリエで、営業活動のほか、パリ本社との連絡業務などをしていました。
移動はすべて、「プジョー 204」で。私と入れ違いで帰国した上司から買った小型車 です。毎週、400㌔~700㌔を走らなければならない上、多くの研究施設などは、人里はなれた場所にあることが多く、運転もかなり慣れてきていたとはいえ、危険な思いもしなければなりません。
その当時は、スピード規制もゆるく、飲酒規制も無いに等しいものでしたので、人口が日本の半分のフランスで、1968年の交通事故死は14、274人にも上っていました。
さらに、もうひとつ、多くの死亡事故原因になっていたのは下の写真のような“3車線”ルートです。
真ん中の車線が両方向の車の追い越し車線なのです。スリルに富んだ運転はできますが、この車線で鉢合わせになって、多くの死者を出していたことは有名です。 現在でも数は少なくなりましたが、まだ存在するようです。
さて、ノストラダムス(占星術師)、オーギュスト・コント(哲学者)、ジュリエット・グレコ(歌手)などの出身地であるモンペリエは、19世紀の栄華を今も伝える南仏特有の美しさを誇る街です。
その近郊も、“パラヴァス海岸”を初め、1953年のフランス短編映画『白い馬』で有名になった大三角州/湿地帯“カマルグ”、巡礼の宿場町“サン・ギレム・ル・デゼール”、34㌶もある“ラ・バンブーズレ”の大竹林などなど、日本の方たちにぜひお奨めしたい、取っておきの憩いの場所が目白押しです。
そして、少々落ち着いてくると、柔道の稽古がしたくてムズムズしてきます。柔道場を探し始めると、すぐに見つかりました。なんと、我々が住むアパルトマンの隣の建物に、目立たない小さな道場があったのです。柔道との不思議な“縁”を感じました。
ここでは、指導者としてではなく、自分の体調のための稽古ができます。道場側もそれを理解してくれて、久し振りに自由で楽しい稽古ができました。
その上、あっという間にたくさんの柔道仲間ができました。その中には、モンペリエ大学理学部のシャルル(Charles)学部長までいて、その後の営業活動にもいろいろ助言をもらいました。
(注1)1968年のサラリーマン平均年収(約63万円)と2018年のそれ(約441万円)とを比較して計算してみました。
次回は「第五十話 受注第一号はモンペリエ大学!」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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