私と柔道、そしてフランス… -「第二十九話 地方での柔道指導 」 -
早大柔道部OB
フランス在住
「第二十九話 地方での柔道指導」
INSでの稽古の合間にちょくちょく入る地方出張指導依頼を、我々は喜んで引き受けていました。
話は前後しますが、パリに到着して間もないクリスマス休暇に、大国君と私はサンテチエンヌ(St-Etienne)にある、名立たる「ロワール柔道クラブ」を訪問することにしました。私より10歳年上の道場主、小兵のレイモン・モロー(Raymond Moreau)さんは、日本、とくに明大柔道部で2年間修業し、1961年のフランス選手権(無差別)で3位になった、業師として有名な指導者です。
ソルボンヌ大学柔道部のフランシス・ピザニ君が、フランス第二の都市リオン(Lyon)に近いサンテチエンヌ(St-Etienne)まで、約530キロの道程を車で連れて行ってくれると言います。INSでの稽古がない土曜日にはソルボンヌ大学の柔道部に通っていた、そういう縁からです。
ロワール河畔の広い道路を走っていた時のこと、突然大きな音と共に車体がガクンと傾き、車の一部が直接道路と接触したような大きなショックが伝わってきました。夢中で前の座席にしがみついて、運転しているピザニ君はと見ると、彼は真っ直ぐ前を見て冷静に車を操作し、無事停止させました。
なんと大国君が座っていた後部座席の下の車輪が消えて無くなっているのです。しばらく皆でタイヤを探したところ、200㍍後方の藪の中に転がっているのを見つけました。
この時点で私は、サンテチエンヌ行きは中止になると思いましたが、あにはからんや、近くの車の修理工場にレッカー車で運び込まれた結果、部品をいくつか交換すれば、走行を続けられるとのこと...。 数時間後、何事もなかったごとく再出発しました。 狐につままれたような思いでした。
翌日から始まった講習会は、サンテチエンヌ在住の人達だけではなく、リオンからも、ピザニ君のようにパリからも参加する者があり、とても活気のある講習会でした。技の説明と乱取稽古が中心ですが、我々が稽古を始めると、参加者は乱取を止め、我々の一挙手一投足を注視します。
指導者の我々が投げられてはならないことは当然ですが、投げるにしてもいつも同じ技で投げてはいけません。技の説明にしても、得意技の説明だけでは納得してもらえません。大変勉強になりました。
また、我々に対するモロー氏の評価も高かったようです。
この講習会を機に、我々とモロー氏との間に深い信頼関係が生れました。彼の柔道に対する思い入れ、情熱から湧き出る彼の人間性に我々は惚れこみ、その後、長いあいだ我々とモロー氏、「ロワール柔道クラブ」との密接な交流が続きました。とくに、大国君にとっては、サンテチエンヌは「第二の故郷」になったようでした。
大国くんとモローさんといえば、30年後の1994年、フランス柔道連盟の日本代表として日仏柔道界の交流に尽力していた大国君と私は、パリで開催される東京/パリ友好都市提携記念事業の一環としての柔道イベントへの協力を、東京都/全日本柔道連盟から要請されました。
その当時、大国君が体調を崩していることは知っていましたが、また一緒にパリに行けることを大変喜んで楽しみにしていることも承知していました。ところが、出発が近づくにつれて、彼の体調が良くない様子が電話を通して伝わってくるのです。ときどき激しく咳き込み、とても外国へ出かける状態ではありません。しかし、危ぶむ周りの声に少しも耳を貸さず、ついに出発の日が来てしまいました。
大国君のお嬢さんが成田空港まで車で送ってくれることになり、拙宅に寄ってくれた車に乗り込んで、大国君の尋常ではない様子を見て、お嬢さんに「とても無理ですよ!」と言いましたが、お嬢さんは「父も良く分かっています。ただただフランスに行きたいと言っていますので、連れて行ってやって下さい!」と懇願されてすべてを理解しました 。
ただ、場合によっては搭乗を断られることもあるのを、彼も承知していて、空港に着くと、先程とは全く違う足取りで機内に入り、パリのホテルに到着するまで、他人には病人であることが分からないように、意識して振舞っていました。
しかし、やはりイヴェントには参加できず、ほとんどホテルで寝込んでいました。そして、翌日いよいよ日本に発つというときに、「自分は一人で、レバノンにいる富賀見先輩と、サンテチエンヌのモローに会ってから帰る」と言い張るのです。家族も了承しているというので、仕事を抱えていた私はやむなく一人で帰国しました。
10日ほど経ったころ、彼から電話があり「帰国して病院にいる」とのことでした。「富賀見先輩にも、モローにも会えて良かった」と繰り返していました。そして、「見舞いに行きたい」と言う私に、「今は、しばらく静養したい」と、病院の名前も教えてもらえません。それから、電話では何度か話をしましたが、その後間もなく54歳で帰らぬ人となりました。パリのホテルの前で握手して分かれたときの彼の手の氷のような冷たさが忘れられません。
2006年にはトゥ-ル(Tours)で行われた柔道マスターズ大会の後、日本チームのメンバー約50名(?)を「ロワール柔道クラブ」に案内して喜んでもらいました。その際、アルツハイマーで入院しているモローさんを見舞いました。浮かべる笑顔は昔と変っていませんでしたが、残念ながら、大国・安本の名前を言っても全く反応がありませんでした。そして、2013年83歳で亡くなりました。
一方、第二十六話でご紹介したフォルテュネ・オーブレ氏は日本を「第二の故郷」と思っていたフランス人柔道家です。
彼は、1967年、46年振りに家族連れで日本再訪を果たしました。大国君も、私も帰国して東京にいましたし、富賀見先輩も一時帰国していて、三人揃って歓迎しました。大国君と私は同行できませんでしたが、富賀見先輩によると、通っていた横浜の「セント・ジョゼフ・カレッヂ」の前では感極まって涙を流していたとのことです。
次回は「第30話 周辺国への観光旅行(その一)」です
【安 本 總 一】 現在 |
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