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私と柔道、そしてフランス… -「第 二十八話 1964年東京オリンピックでの“日本敗北” 」 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2018年10月11日

「第二十八話 1964年東京オリンピックでの“日本敗北”」

  1964年7月、東京オリンピックがいよいよ3ヵ月後に迫っているときです。仏柔連から「シーズン終了。柔道の稽古は9月に再開する!」との通達がありました。オリンピックという大事な大会を控えたこの時期、最も厳しい稽古を候補選手に求めるだろうと想像していた我々日本人コーチ陣は肩透かしを食ったような思いでした。フランス全国がヴァカンス(長期休暇)に突入したのです。

  それでも、富賀見先輩によると、この時期は柔道とヴァカンスを同時に楽しむ合宿がフランス各地で開かれ、候補選手達も各々これらの合宿に参加するとのこと。「郷に入っては郷に従え」で、7月、我々若手日本人コーチ4人は揃って南仏のボーヴァロン(Beauvallon)での国際合宿に参加することにしました。8月は富賀見先輩と大国君は再びボーヴァロン、伊藤君と私はレマン湖畔のトノン・レ・バン(Thonon‐les-Bains)の合宿に参加することを決めました。 

ボーヴァロン国際合宿 相撲のデモンステレーション
【ボーヴァロン国際合宿 相撲のデモンステレーション】

  ボーヴァロンはコート・ダジュール(紺碧海岸)に面した屈指のリゾート地、一方トノン・レ・バンは温泉/鉱泉が湧き出る風光明媚な保養地。家族連れで参加する候補選手もかなりいました。

  ボーヴァロンは外国選手にも人気があり、例のオランダのヘーシンクや、この後の東京オリンピック・中量級で銀メダルを獲得したドイツのホフマンなどが、毎年当地でパーソナル・トレーニングに励んでいたようです。とくに、ヘーシンクのトレーニングの様子を実際に見た富賀見先輩と大国君は、その激しさに「度肝を抜かれた!」と言っていました。

国際合宿で 右端:ホフマン選手
【国際合宿で 右から:ホフマン選手、伊藤、ヘルマン選手(ドイツ)、安本】

ヘーシンクのボーヴァロン合宿
【ヘーシンクのボーヴァロン合宿】

【稽古の合間にニース海岸を散歩】 右:伊藤、左:安本
【稽古の合間にニース海岸を散歩】 右:伊藤、左:安本

  さて、いよいよ1964年(昭和39年)10月10日、「第18回オリンピック競技大会」が東京で始まります。このとき初めて、柔道がオリンピックの正式種目になりました。これが決まったとき、柔道関係者はもろ手を挙げて喜びました。もともと、「東京オリンピック」を語るときは「柔道」を語らざるを得ない歴史があったからです。

  近代オリンピックの創設者、フランス人のクーベルタン男爵は、スポーツによる教育改革を提唱し、常々、その実現のための人材を求めていました。1909年(明治42年)、アジア初のIOC委員となる人材を求めていた彼は、第二代IOC(国際オリンピック委員会)会長として、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の学長に、就任を依頼し快諾を得ます。この学長こそ、他でもない、「講道館柔道」の創始者、嘉納治五郎師範だったのです。

  嘉納師範は1936年のIOCベルリン総会で、1940年(昭和15年、紀元2600年)の「第12回オリンピック競技大会」を東京に招致することに成功します。さらに、1938年のカイロ総会で東京オリンピック支援に奔走したあと、ヨーロッパ、アメリカを回っての帰路、氷川丸の船上で病死します。その直後、日本政府は、戦火拡大を理由に東京オリンピック開催を返上しました。

  ですから、嘉納師範の痛恨の思いが通じたような「1964年東京オリンピック」だったのです。しかし、フランスにいた我々日本人若手コーチ陣は、残念ながら帰国できず、毎日、新聞・テレビのニュースで結果を追うしかありませんでした。

  フランス代表としては、INSでの稽古仲間のブーロー(Bourreau)、ルベール( Leberre)、グロッサン( Grossain)、レステュルジョン(Lesturgeon) の4人が選ばれ、出場しました。しかし、どうしたことか、日仏コーチ陣から絶大の評価を受けていたこの4人が、4人とも、早々に完敗してしまいました。

  一方、日本チームは軽量・中量・重量で金メダルを獲得。“無差別”の決勝戦は、予想通り、神永昭夫先輩(明大卒)とオランダのヘーシンク選手との対決になりました。

  神永選手は富賀見先輩と同期で、明大柔道部の全盛期をともに築き上げた仲で、大国君は後輩になります。私も神永先輩には何度も稽古をつけてもらっていました。それだけに、固唾を呑んで、この対決の結果を待っていました。

ヘーシンク-対-神永
【ヘーシンク-対-神永】

  神永先輩が完敗したというニュースが大きく報じられました。フランスの新聞紙面には、「Le Japon en deuil (喪に服す日本)」という活字が躍り、この「日本柔道敗れる」が柔道界だけではなく、日本中、さらに、受け取り方は別として、世界中にビッグニュースとして伝わりました。 

  翌日、テレビのニュースを4人で見ながら改めて涙しましたが、その際、へーシンクは強いだけではなく、礼儀正しいスポーツマンであることを示す画像を見ました。それは、ヘーシンクが先輩を30秒抑え込み、審判がヘーシンクの“勝”を宣言した瞬間、興奮したオランダの柔道関係者が試合場に土足で駆け上がろうとするのを、起き上がりながら片手で「待て!」と制止したのです。この立派な態度に、ヘーシンクには「2度負け」したという思いを4人ともに強く持ったことは間違いありません。

待て!
【待て!】

  さて、オリンピック後、フランスチームの不成績が原因で、INSでの指導態勢、強化選手の入れ替えなどに何らかの変更があるのではないかと、少々心配しておりましたが、それらしい兆候はまったく見られず、オリンピック前と少しも変らない緊張感を保ちながらの稽古が続きました。これも、毎回、我々日本人若手コーチが力を抜かずに、フランス人強化選手に対応していた結果だと確信しています。

  次回は「第二十九話 地方での柔道指導」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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