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私と柔道、そしてフランス… -「第二十三話 毎日が試合!」-

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2018年8月2日

「第二十三話 毎日が試合!」

 バン! 大国君が畳に叩きつけられたときの音は、いまだに耳の奥に残っています。粟津先生、富賀見先輩、私も一瞬、息を呑み、フランス人達も唖然としていました。大国君も眼をパチパチさせていました。が、次の瞬間から普段の彼に戻り、余裕をもってグレス選手を翻弄しました。

 我々はまだどこかで、フランス柔道を甘くみていたかもしれません。このことは、そうした我々に警鐘を鳴らしてくれ、兜の緒を締めなおす切っかけを与えてくれました。

  その日、私は6、7人の選手と稽古しましたが、やはり、稽古というより気の抜けない試合のようになりました。そして、この日の経験から、指導者・コーチ役は粟津先生、富賀見先輩に任せ、私と大国君は稽古台、彼らのライバル的存在に徹する必要があると感じたものです。

  確かクリスマスの頃、パリ地区の大規模な合同稽古がクーベルタン競技場で行われました。後で分かったことですが、その稽古を見て、我々のうち、どちらをリオン(Lyon) に送るかを決定することになっていたようです。二人とも、そんなこととはつゆ知らず、次から次へと掛かってくる選手を、縦横無尽に投げ飛ばしていました。

  数日後、フランス柔道連盟から伝達があり、二人ともパリに残って引き続きINSで指導することになりました。

懐かしのINS(国立スポーツ研究所
【懐かしのINS(国立スポーツ研究所】

 その後、1964年東京オリンピックを目指したフランス柔道チームの強化練習は日に日に真剣さが増していきます。

 この東京オリンピックから、初めて男子柔道競技(軽量・中量・重量・無差別の4階級)が正式種目に加えられることになり、各国の柔道連盟は日本人コーチを招聘するなどして強力なチーム作りに躍起になっていました。 

 その当時、すでに約70,000名の登録者を抱えていたフランス柔道連盟は、下記のようなチーム体制を作り上げ、他国連盟の羨望の的になっていました:

 -日本人コーチ陣:粟津・富賀見・大国・安本に加え、1964年2月頃に伊藤武範  (天理大出身)が加わり5名。

伊藤(左)・大国(中央)と共に
【伊藤(左)・大国(中央)と共に】

-フランス人コーチ陣:      
 ・クルティーヌ(1956年第1回世界選手権第4位、現10段)
 ・パリゼ(1958年第2回世界選手権第4位、9段)
 ・ペルチエ(9段)

  このコーチ陣の下で、約25名の各階級候補選手が入り混じって、オリンピック出場権を獲得するためにしのぎを削るのです。各選手は毎日の稽古を通して、その実力をアッピールする必要があります。とくに、出場選手を決定するときに一言を持つ我々日本人コーチにアッピールしたい。それだけに、連日の稽古は熱を帯びるのです。

 その上、富賀見先輩からは、「絶対に投げられるなよ!」と言い渡されていたため、尚更です。先輩によると、「自分より弱いと見ると、途端に言うことを聞かなくなる」とのことでした。

 当時、フランス・チームは、ヨーロッパ選手権などで大活躍していたルベール・グロッサン・ブーローの3選手を抱えていて、周りの期待は高まるばかりでした。因みに、現在3人共9段で、フランス柔道の鏡として、尊敬されています。 

 こんな状況の中で、粟津先生(当時40歳)は、膝を悪くして“立技”の乱取が出来なくなっていましたが、その素晴しい“寝技”に私たちは目を見張ったものです。どんな態勢からも、「ホーイ・ ホーイ」と笑みを浮かべながら、いつの間にか押さえ込み、関節技・締め技で手玉にとっていたことを懐かしく思い出します。正に神業の持ち主でした。

  また、日本でも一流選手だった身長160cm程の小兵・富賀見先輩にも驚かされました。その小さな体から繰り出される“大外狩り(注1)”の威力は、ヨーロッパの柔道界で鳴り響いていました。世界の重量級で活躍していたオランダの巨漢(190cm、110kg)ウイレム・ルスカ選手(注2)さえ、南仏の国際合宿で富賀見先輩に大技・小技で子供扱いされ、悔し涙を隠さなかったことなどは、今でも語り草になっています。

 この粟津先生・富賀見先輩の素晴しい“技”を目の当たりにして、私は日本の柔道に大きな誇りを感じたことでした。

(注1)
大外刈り:足技の一つ。相手をその真後ろ又は後隅へ崩し、一方の脚で相手の体重がのっている脚を、刈り上げて後方に倒す技、及びこれに類する技。

(注2)
ウイレム・ルスカ選手:ミュンヘン・オリンピック(1972年)で無差別級/重量級の2階級制覇、また、1967年/1971年世界選手権ではいずれも金メダル。

 次回は「第二十四話 パリの日本人」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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