私と柔道、そしてフランス… -「第二十二話 パリ生活の始まり」 -
早大柔道部OB
フランス在住
「第二十二話 パリ生活の始まり」
前回の末尾で触れた加藤一画伯(1925年~2000年)は、絵と自転車競技という非常にかけ離れた二つの道を全力疾走で走り抜き、いずれの道でも名を成した稀有な人物です。
実は、画伯は私にとってとても懐かしい人なのです。私は、1967年、フランス・イギリスでの柔道指導を終えて帰国し、日本電子(株)に就職しましたが、その駐在員として、1968年に再度来仏してから1976年までに、画伯には同僚の奥住宏さん宅で何度も会いました。
奥住さんは、パリで活動を始められた加藤さんの絵を初めて購入した日本人で、画伯は自分の『風の絵』が飾ってある奥住さん宅をチョクチョク訪れていたのです。その上、画伯の夫人、昌子さんが私の高校・大学時代の友人、水口拓君のお姉さんであることが分かったりして、画伯の絵にますます親しみを感じるようになりました。
時をへて、日本館館長の応接間にひっそり飾られた画伯の絵に出会ったときは、僻地(?)で親しい人に遭遇した思いでした。 と同時に“何故ここに?”という疑問も湧きました。
この疑問は、昌子さんの歿後、お嬢さんのまいこさんから贈られた『加藤一画集』の“年譜”を読んで少々明らかになりました。
それによりますと、「日本館」建設に寄与した薩摩治郎八の助力で、1958年、自転車競技世界選手権に出場するプロチームの監督として来仏。フランスでの絵画修行を胸に秘めていた画伯は大会後フランスに留まることを決意し、日本館を根城に絵画修行を開始したようです。
私が出会った2枚の絵は、加藤画伯が感謝の意味で日本館に残されたのか、それとも、薩摩治郎八が買い取ってくれたのかは、はっきりしていませんが、なんとかして多くの人に観賞してもらいたいと願っています。
加藤画伯が日本館で修行を始めた5年後に、私も日本館でパリ生活を始めました。面白い縁ですね!
さて、話を元に戻して、我々がパリに到着してから数日後、木内館長に、日仏学生柔道協会のフランス側代表者ボネモリー氏(フランス柔道連盟の創始者)を紹介されました。その際、私と大国君とは、翌年の東京オリンピックに向けて、フランスチームのコーチとして、国立スポーツ研究所(INS)(注1)で、さっそく指導を開始してもらいたいと言われました。
但し、大国君か私のどちらか一人は、リオン市(Lyon) に移動させられる可能性も示唆されました。このことは、日本を出る前から伝えられていたことで、二人の間では、“どちらが選ばれても前向きに受け入れよう”、と話し合っていました。とは言っても、お互いに、パリに残りたいと思っていたことは確かです。
このINS(国立スポーツ研究所)には、当時のソ連・東ドイツ等のステート・アマチュァ制度と同様の制度が施行されていました。各種スポーツの優秀な選手がフランス全国から集められ、選手達は報酬と物質的援助を受け、身分を保証され、競技に専念できる素晴しい環境が整えられていました。
さらに、兵役に就いている若者のなかからも、各種スポーツの優秀な者を選び出し、INSに近いジョアンヴィル(Joinville)の軍事施設に集め、毎日INSで稽古させるという、徹底的なエリート選手養成のシステムが存在していました。
これらの最優秀の競技者にたいして、柔道は、粟津正蔵先生(注2)の下に、前述の富賀見真典先輩、大国君、私が加わり、日本人コーチ4人体制で進むことになりました。
いよいよ、INSでの指導の初日を迎えました。指導と言っても、実際は試合のような毎日になることは私も大国君も覚悟していました。富賀見先輩から、フランス・チームのレベルは非常に高く、“絶対、油断するなよ!”との言葉通り、気持ちは引き締めていましたが、何せ、二ヶ月近くも稽古をしていなかったこともあり、練習不足で大事な試合を迎えるような気分ではありました。
乱取(自由稽古)が始まりました。私はすでに日本で痛めていた右膝に自転車のチューブをサポーター代わりに巻きつけているところでした。大国君のところに、グレス(Gress)選手が走っていくのが見えました。フランス重量級の主力選手です。そして、組んだと思った瞬間、受けの強さでは有名だった大国君の優に100キロはある巨体が、グレス選手の“払い腰”でひらひらと舞いました。そして、大きな音を立てて、畳に叩き付けられたのです。
(注1)
INS: Institut National des Sports
(注2)
粟津正蔵先生: “フランス柔道の父”と呼ばれた川石造酒之助先生の後継者として、1950年からフランスチームの指導に当たっていた。2016年歿。
次回は「第二十三話 毎日が試合!」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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