私と柔道、そしてフランス…「第十七話 東西交通の要衝、マラッカ海峡」
早大柔道部OB
フランス在住
「第十七話 東西交通の要衝、マラッカ海峡」
シンガポールを出て間もなくすると、マレー半島とスマトラ島を隔てるマラッカ海峡に入ります。太平洋とインド洋を最短距離で結ぶ航路の要衝です。経済的にも戦略的にも重要な位置にあることから、周辺諸国をはじめヨーロッパの国々、とくにオランダやイギリス、そして海賊までがその触手を伸ばし、争いが絶えない地域でもありました。
第二次世界大戦中は日本軍の占領下にありました。そして、戦後復活したイギリス・オランダによる支配も、大戦中に力を使い果たしたことで統治力が激減、その結果、スマトラ島を含むインドネシアはオランダから、マレー連合州はイギリスから独立しました。
ところで、マラッカ海峡にまつわる、ある悲しい話をテニス部の友人から 聞かされていました。
それは、1930年代初頭に世界4大テニス大会で5回のベスト4進出という大記録を打ち立てた早大の大先輩、佐藤次郎さんが、1934年のデビスカップに出場後、箱根丸で帰国途中のマラッカ海峡で、投身自殺を遂げたという悲話です。
自殺の理由は明らかにされていない上に、“何故マラッカ海峡で?”という疑問が頭から離れませんでした。
デッキから望む海は、強い潮流が発生する海域と聞いていましたが、そのときは、神奈川県の油壺のように、“油を流したような海”、“鏡のような海”の何れの表現をとってもぴったりの海でした。神秘的な海面を眺めていると、引き込まれそうにもなり、不気味でもありますが、息を呑むほど美しかったことを覚えています。1934年4月5日、佐藤さんがどのような想いでこの海を眺めていたのか...。
翌日、セイロン(現在のスリランカ民主社会主義共和国)の首都・コロンボに到着します。
セイロンは、ご多分にもれず、16世紀初頭からポルトガル(1517年~1658年)、オランダ(1658年~1802年)、そしてイギリス(1802年~1948年)によって支配されていた島です。また、第二次世界大戦中は、イギリス領であったために、首都コロンボが日本海軍の艦載機による空襲を受けています。
ポルトガル・オランダによる統治時代は、コロンボは単なる軍事拠点でしたが、イギリス支配下では都市開発が進み、シンガポールに似た整然とした街並み、植民地風の建築物と旧跡が交じり合った魅力的な街でした。
赤道から700キロ余りのところだけに、その暑さもかなりなものでした。それでも、暑さが苦手な大国君を船に残して、一人で歩き回りました。
昼に入ったレストランでは、大好物のカレーライスを注文しました。ボーイが「Hot?」 と聞くものですから、汗まみれの私を見て「暑いかい?」と 聞いているのだと思い、おもむろに「Yes, very hot!」 と答えてしまいました。
出てきたカレーライスは、私にとっては“激辛”で、辛いだけで味も何も感じられません。半分ほど食べて、ようやくボーイから聞かれた「Hot ?」の意味は「辛口で?」であると気づきました。それに対し、ご丁寧にも「激辛でお願い!」と答えていたのです。
ほうほうの体で店を出ましたが、今度は強烈な太陽光線に襲われて文字通りふらふらになり、やっとの思いで船に帰り、そのままバタンキュー。翌日まで寝込んでしまいました。
レストランを出るときに、かのボーイが大笑いしていたのを思い出します。
恐ろしいもので、この日から、辛いものを想像しただけで汗が噴きだしてくるようになりました。今も、この拙文を書きながら、汗をかいています。これが条件反射というものなのでしょうか?! ただ、面白いことに、辛いものがますます好きになりました!
次回は「第十八話 極貧のインドへ」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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