私と柔道、そしてフランス…「第十五話 戒厳令下のヴェトナム・サイゴンへ」
早大柔道部OB
フランス在住
「第十五話 戒厳令下のヴェトナム・サイゴンへ」
香港を出航したヴェトナム号は、南シナ海を南下してヴェトナム・サイゴンに向います。
“待てば海路の日和あり”がピッタリの穏やかな天気が続き、船はすべるように進んでいきます。不思議なことに、あれだけ苦しんだ船酔いが兆候すら見せません。他の人たちもケロッとして船旅を楽しんでいました。ただ、金井さんだけは気の毒なことにマルセイユまで船酔い状態が続いたようです。
そんな中、船友が一人増えました。2等船室唯一の日本人・広島の浅田成也医師(注1)です。浅田先生は、偶然、私に最初に仏語学習の意欲を与えてくれ、フランスに対する興味を湧き起こしてくれた大恩人・窪田般彌先生の暁星中学時代の親友であることが分かりました。さらに、大国君とは同郷で、“縁は異なもの味なもの”とはこういうことか、と合点がいきました。その上、一年後、窪田先生の来仏時に、声を掛けていただき、窪田先生にパリでお目に掛かることなど想像だにしなかっただけに望外の喜びでした。その後浅田先生とは、亡くなるまで親交が続きました。
ところで、大国君と2等船室に浅田先生を訪問しようとしましたが、この頃の客船は格差社会の最たるもので、3等船室の我々は4等船室には行けても1等・2等には行けない構造になっていて、先生の訪問を待つしかありません。プールも2等以上の船客しか利用できません。また、先生の話から、食事の内容もかなり差があることが分かってきました。
さて、南シナ海からサイゴン川に入ると、そこはすでに南ヴェトナムです。
1887年10月、フランス領インドシナ(ヴェトナム・カンボジア・ラオス)連邦が成立し、以来、ヴェトナムはフランスによる統治が続いていましたが、1946年に独立戦争が勃発し、1954年5月、ディエンビエンフーでフランス軍が敗北・撤退して独立戦争が終了。ジュネーブ協定により、北緯37度線で国土がヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)とヴェトナム国(南ヴェトナム)に分断されることになりました。
ゴ・ディン・ジェムの大統領就任後、ゴ政権の後ろ盾のアメリカが南北紛争/南ヴェトナム解放民族戦線との戦いに軍事介入を強める中で、1962年にヴェトナム戦争が始まりました。さらに、1963年6月には、仏教徒に対する高圧的な政策に対する抗議の焼身自殺が起り、8月にはヴェトナム全土に戒厳令が布告されることになります。私たちが寄航したのはまさにこの戒厳令布告直後でした
静かで美しいサイゴン川を50キロほど遡った町サイゴンは、南ヴェトナムの首都です。
さて、サイゴン港入国管理事務所で入国ヴィザの提示を求められ、立ち往生していたところに、とつぜん、係官と親しい様子の日本人青年が現れ、事情をきいてくれました。そして、フランスに柔道の指導に行くという我々の話を聞いて、日本人が主宰する市内の柔道場に指導に行くという名目で、簡単に入国許可を取りつけてくれました。後で知ったことですが、ヴィザはお金を出せば簡単に取得できたようですが、10ドル(現在の貨幣価値で約4万円)もしたようです。
この大西正一という奇特な青年は、日本の大商社のサイゴン駐在員の子息で、日本からの汽船が到着するたびに、管理事務所で困っている日本人の世話をしているとのことでした。彼とも、その後ずっと交友が続きました。
仏植民地の風情をまだ残しているという市内を大西さんに案内してもらいましたが、戒厳令下の街には至るところに軍隊の姿があり、観光などしている雰囲気ではありませんでした。
そのため、観光は早々に切り上げ、前述の町道場に連れて行ってもらい、20人ほどのヴェトナム人の門弟を相手に、乱取・得意技の説明などを2時間にわたって行ないました。 夜は、そのお礼にと、道場主にサイゴン川河畔の高級ヴェトナム・レストランに招待され、“芸は身を助く”を実感しました。
後日談として、船がインド洋を航海中の11月2日に、ヴェトナムで軍事クーデターが起き、ゴ・ディン・ジェム大統領が暗殺されたこと、ヴェトナム料理を満喫した前述のレストランが何者かによって爆破されたとのニュースを、パーサーから聞きました。 “世界の新しい歴史が作られて行くその渦中にいたのだ!”という思いと共に、滞在中のサイゴンの張り詰めた空気を思い出していました。
(注1)
浅田成也:
・1963年~1964年:パリ大学脳・精神医学教室に留学
・1970年:広島に浅田病院(児童心療内科・思春期心療内科・心療内科・精神科)
設立。 初代院長に就任
次回は「第十六話 飛び魚やイルカとの競争...」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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