私と柔道、そしてフランス… -「第九話 大学時代(その四)」 -
早大柔道部OB
フランス在住
「第九話 大学時代(その四)」
稽古・試合に明け暮れている中でもフランスのことは頭から離れませんでした。
大学2年の終りに4段に昇段しました。そのとき、学院時代に斎藤一寛先生から「4段になったら訪ねていらっしゃい。フランスに行かれるようにしてあげるよ」と言われたことを思い出しました。しかし、先生は大学の教育学部長に就任されたばかりと知り、気後れして先生に甘えることは断念しました。
3年生になってしばらくすると、同期生の間では就職の話が出るようになります。私の夢はもちろんフランス留学ではありましたが、その時点では具体的な話は全くなく、ときどき不安が頭をよぎることもありました。両親などは本人以上に心配して、とりあえずの就職を勧めるようになっていました。
1961年の初秋のある日、フランスでの柔道指導を終えて帰国していた佐藤経一先輩から素晴しい情報を授かりました。
先輩が指導していたPAU(ポー)(注1)という町の柔道場「フランス文化センター」が日本人柔道指導者の派遣を要請してきた、というのです。
「興味があったら、自分で先方と交渉してみなさい」との提言に一瞬たじろぎましたが、 佐藤先輩に最初に会ったときのアドヴァイス「柔道とフランス語はしっかりやっておけよ!」を思い出しながら、夢を見ているような想いで聞いておりました。
そして、自分を試す絶好の機会と受け止めて、直ちに交渉を開始しました。
と言っても、パソコン・FAXなどない当時、一般人にとって海外とのコミュニケーションの方法は手紙か電話しかありません。電話はまだまだ普及していず、料金も高額でしたので、勢い手紙によるしかありません。
フランス語で手紙を書いたことなどはそれまで一度もなく、1・2年生で第一外国語として選んだフランス語の先生・安藤昌一助教授の貴重な指導を受けながらの作業でした。
当時、両国の郵便事情ははかばかしくなく、航空便で約十日ほどを要しました。 こんな事情から、交渉もスムースには進まず時間だけが過ぎ、改めてフランスまでの距離を感じました。
蛇足ですが、郵便局に行き、「航空便でお願いします」と言うと、「これを貼って下さい」と小さいシールを差し出されました。そこにはフランス語で“PAR AVION(航空便)”と印刷されています。びっくりするのと同時に少々嬉しくなったのを想い出します。 後で知ったのは、郵便用語はフランス語が公用語だったのですね...。
そうこうしている内に、11月末の早慶戦も2連勝して終わり、例年通り柔道部・役員交代の時期を迎えていました。 そして、翌年4月からの新主将を拝命し、恐る恐る大役への道をたどり始めました。 中学・高校でも主将を務めましたが、64年に及ぶ歴史を誇り、100名を越える部員を抱えた伝統の柔道部の主将となると、比較できない責任の重さです。
恒例の寒稽古を、見習い主将として無事にこなすと、新学年直前の3月中旬に、新1年生を交えて南房総・館山で行われる、これも恒例の春季合宿が待っていました。宿泊は早大共通合宿所、稽古は柔道の名門高・千葉県立安房高等学校(注2)の大道場で行われます。
館山は温暖で風光明媚な行楽地として有名ですが、この地のほのぼのとしたイメージとは裏腹に、当合宿は部員にとっては一年で最も厳しい稽古・トレーニングの10日間なのです。さらにこの年は、警視庁からの要請で警視庁の選手15名ほどが参加する合同合宿となりました。寝起きを共にし、勿論稽古も一緒。毎回の稽古が試合のような雰囲気の厳しい合宿になりました。
他の学校のことは分かりませんが、早大柔道部に関しては、この当時の合宿には師範・監督などは参加せず、全て学生、とくに主将の責任において実行されていましたので、軽い怪我人は多発しましたが、つつがなく合宿を終えることができて、心からホッとしたことでした。
(注1)
PAU(ポー): フランス南西部のピレネー山脈の渓流ポー川沿いに位置する。
(注2)
千葉県立安房高等学校: 水田三喜男(元大蔵/通産大臣)、醍醐敏郎(現10段)、大坂泰(本エッセー「第一話」で紹介)、篠巻政利、高木長之助などの多くの有名柔道人を輩出。
次回は「第十話 大学時代(その五)」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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