私と柔道、そしてフランス…「第五話 高校時代(その四)」
早大柔道部OB
フランス在住
「文武両立」の難しさを肌で感じつつも、柔道の稽古となるとますます身が入り、長時間の稽古にも疲れを知らず、心置きなく伸び伸びと精進していました。
それに、大学柔道部が、昭和10年(1935年)代に大活躍された香月昇先輩をコーチ・監督役で送り込んでくれたのです。これは優秀な高校柔道選手を早大に獲得するのが年々難しくなっていた中で、学院柔道部の活躍を見て、“同系列の学院柔道部を育てよう”という機運が高まったからだと思います。先輩は160センチ・60キロに満たないいわゆる「小兵」で、当時40歳代になっておられましたが、気力のこもった乱取ではトコトン絞られました。
また、大澤(貫一郎)道場では、警視庁の現役師範を務めておられた大澤師範自らに稽古をつけていただきました。とくに、寝技の特訓を受け、師範得意の「袈裟固め」を伝授してもらい、私の得意技にもなりました。
このように指導者にも恵まれ、少しづつ自信のようなものが持てるようになり、できる限り多くの試合に出場していました。
後列右から3人目・大澤師範、前列右から2人目・安本
当時(1950年代)の柔道の試合は、体重無差別で行われていました。まだまだ「柔よく剛を制す」を旨とする柔道の伝統が守られていたのです。その頃の私の身長は170センチ足らず、体重は60~62キロでした。高校柔道選手としてはごく普通だったと思いますが、やはり、技量が同じであれば、体重は多ければ多いほど有利であることは間違いありません。目標を70キロに設定し、家では食事の量を増やしてもらいましたが、運動量が人一倍多いにもかかわらず生来の少食が災いして、用意してくれた食事も完食できないことが多く、したがって体重が増えることもありませんでした。
試合では常に攻撃的な柔道に徹し、各種団体戦(高校対抗、道場対抗、区対抗など)の主に先鋒(団体戦で最初に戦う選手)として、チームに貢献したと思っています。学院柔道部は、東京都では常に3位以内に入っていました。それでも、これも“井の中の蛙大海を知らず”にすぎないこと、地方には多くの強豪校・選手が存在することも、地方合宿などを通して、認識していました。そして、そのような強豪選手と顔を合わせることができるのは、関東大会、全国大会、国体に出場するしかありませんでした。
前列右から3人目・安本、後列左から2人目・大澤師範
私の高校時代の最大の目標は国体出場でした。そのためには、東京都予選を通過せねばなりませんから、全ての照準を1958年の富山国体東京都予選に合わせていました。
体調も良く、自信もありました。東京都予選の当日朝、会場で出会った高校・大学を通じてのライバル、芳垣修二君(1962年第1回全日本体重別選手権大会軽量級優勝)が、「ヤス(安)! お前の2回戦で会う選手は、この春九州から移住してきた奴で、かなり強いらしいぜ! 気をつけろよ!」と教えてくれました。
1回戦を簡単に勝ち、2回戦は芳垣君に言われたとおり、この九州男児との対戦でした。見たところ、6尺(180センチ)豊かの大男で、豊富な稽古を想像させる引き締まった体、鋭い眼光...。後に明大で活躍した神屋興助君です。
文字通りの“組んずほぐれつ”の戦いが制限時間いっぱい続き、お互いに手も膝も付かずで、トーナメント戦でなければ「引き分け」のケースだったと思います。しかし、この場合は優越をつけねばならず、結局、九州男児に軍配が上がりました。おそらく、組んだときに明らかな体力の差を感じ、守りに回った結果だったと思います。 結局、彼が優勝して予選を通過しました。芳垣君も順調に勝ち進み、国体へ...。
もちろん私の国体出場の悲願はかないませんでした。家への帰り道、思わず悔し涙を流してしまいました。なにか、全てが終わったように思えたのです。
その日はかなり落込みましたが、心機一転、翌日から稽古を再開しました。
その当時の“強くなりたい!”という、たぎるような思いから、普段の稽古はもちろん、真冬の朝6時からの大学柔道部の寒稽古には高校1年生から皆勤しましたし、とくに辛い辛い3月の館山合宿には2年生から特別参加させてもらいました。当時の学生柔道界の有名選手の先輩が居並ぶ中で、高校生がただ一人臆面もなく参加したのですから、先輩方もかなりびっくりされたようです。
また、講道館の毎月の昇段試合に真面目に出場していたために、3年生の終りには、昇段規定点を大きく越え、「3段」に昇段しました。
次回は「大学時代(その一)」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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