私と柔道、そしてフランス… -「第四話 高校時代(その三)」-
早大柔道部OB
フランス在住
文字通り柔道に明け暮れているときも、かなり頻繁に頭をよぎることがありました。 それは学業と柔道の両立の問題です。
中学卒業時こそ、この件で都知事から表彰されたことは前述しましたが、学院入学後は、明らかに今風にいうと”柔道ファースト”であったことは否めません。その上、学院の授業レベルは先輩などに聞いていたとおり非常に高く、中学時代に得意だった英語でも、入学当初からアップアップ状態で、大いに不安を感じていました。
おまけに、準優勝した東京都高校柔道大会が、一学期の期末試験の数週間前、関東大会は正に期末試験の真っ只中でした。幸い、大会は日曜日でしたので、全科目の試験に出席はできましたが、良い点が取れる訳がありません。自宅に送られてきた試験結果には、案の定、危険信号が点滅していました。2科目に赤点(60点以下)がついていたのです。一年の平均で赤点が2科目につくと有無も言わせず留年です。
この一学期の不勉強を反省し、二・三学期は、持ち前の”なにくそ精神”を発揮して、なんとか切り抜け、意気揚々と2年生最初の授業に出ましたが、驚きのニュースが待っていました。ついこの間まで、机を並べていた同級生のうち、15名が留年したというのです。私はおそらく16番目に連なっていたに違いない、と背筋が凍る思いでした。
この「文武両立」への挑戦は大学卒業まで続いたわけで、その辛さはトラウマとなって残り、今でも数学の試験などで問題が解けずに七転八倒する夢をよく見ます。
さて、学院1年の終りに、フランスに発たれる佐藤経一先輩を羽田空港に見送りに行きました。タラップを上がる先輩を眺めながら”この飛行機の着く先がフランスなんだ。どんな国だろう?”などと考えているうちに、衝動的に、「俺も、絶対にフランスに行くからな!」と仲間に宣言してしまったのです。こう宣言してしまえば、何が何でも実現するように全力を尽くす自分をよく知っているために、そういう言葉になったのだと思います。
そして、これを契機に、フランスについてできるだけ多くの知識を得たいという思いが強くなっていきました。そんな時、タイミングよく、世界史担当の宇佐美徳衛先生の授業が始まりました。
宇佐美先生も、非常に個性的な先生で、授業の大半は「フランス革命」についてなのです。毎回、生徒が聞いていようがいまいがお構いなく、ルイ十六世、ダントン、ロベスピエールなどの名前を挙げながら、熱っぽく語る先生を懐かしく思い出します。この革命の中心舞台だったパリでこの拙文を書いていることにも感慨深いものがあります。
そして、もう一人忘れることのできない先生はフランス語の斎藤一寛先生です。1960年~1962年早大教育学部長を務められた彼は、当時フランス留学から帰えられたばかり。見てきたばかりのフランス人の生活を面白おかしく活写されるベテラン大学教授の授業を、高校3年の私は耳をそばだてて聞いていたものです。
ただ、その頃の私は、昼間に猛烈に眠くなる”居眠り病”だったのかもしれません。あるとき、授業中にはしたなく舟を漕いでいると、斎藤先生の猛烈な雷が落ちました。当然です。「後で、教員室に来い!」と言われたので恐る恐る教員室に行きますと、さきほどの怖い斎藤先生はどこへやら、「君はなんで居眠りなんかしているの?」と穏やかに問われます。正直に「たぶん、柔道の稽古で疲れているからだと思います」と答えました。「そんなことでは、君の青春は台無しになってしまうよ。 ところで、君は何段だ ?」。「2段です」と答えると、びっくりした表情で、「そうか、 それは大したものだ。よし、君が4段になったら訪ねていらっしゃい。フランスに行かれるようにしてあげるよ」と言って頂きました。
先生は、留学中にフランスで柔道が盛んなことを知り、いくつかの道場を見学するうちに、柔道場経営者から日本人柔道指導者の紹介を依頼された、とのことでした。小躍りしたいのを抑えながら教員室から出て来たのを思い出します。
次回は「第五話 高校時代(その四)」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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