私と柔道、そしてフランス… ー 第七十七話 コーセーコスメタリーの活躍ー
早大柔道部OB
フランス在住
- 第七十七話 コーセーコスメタリーの活躍 -
1984年、エルセーヴ・ラインの順調な伸びとフリースタイルの発売で、問屋を通してこれらの商品を仕入れている店(スーパー・薬局など)では活気を帯びてきましたが、コーセーから直接仕入れているデパートや化粧品店では、売れ行きが伸び悩んでいました。
主な理由は、スーパー・薬局などでの相変わらずの値引きです。同じ商品を定価販売で買う客が減ってくるのは当然でしょう。
スーパー・薬局などでは、売れれば売れるほど、目玉商品として値引きの対象になります。場合によっては、乱売(注1)合戦に巻き込まれることもあります。この頃、エルセーヴ/フリースタイルなども、この合戦に巻き込まれる危険性を常にはらんでいました。
そこで、ロレコスはしばらく前から検討していた新戦略を、思い切って導入することにしました。それは原点に戻って、制度品ルート(注2)/問屋ルート(注3)について、それぞれのルートの特徴を活かせる商品政策/ブランド開発の導入を図るというものでした。
手始めに、それまで両ルートで販売していたエルセーヴ/フリースタイル/レシタル(染毛剤)などを問屋ルート専用としました。また、同時に、エルセーヴ・シャンプー/リンスの増量版を発売して、 その頃から始まっていた“朝シャン(注4)”ブームに対応したのです。
そして、定価販売をモットーとする制度品ルートには、新しいトータル・ヘアケア・ラインを導入するという思い切った販売戦略の変更を決定しました。
この新しいラインを“エクセランス”と名付けました。シャンプー・リンス・トリートメント・ムース・染毛剤・ヘアスプレーなどを揃え、価格に関しては、エルセーヴ・ラインなどよりも20%ほど高く設定しました。
この新戦略は、両ルートから受け入れられ、順調な滑り出しをしました。
こうして、ロレアルとコーセーの関係が深まる中で、ロレコス初代社長のアルナルが定年で帰国したこともあって、例のカナダから来た大物ディレクターは、ロレアル関連企業の統合と“ロレアルの独立”に向けて、あからさまに事を進めていました。
こうした強硬なやり方は、コーセー社員だけでなく顧客にも悪影響を及ぼすとして、コーセーの小林禮次郎社長が再び動きました。1976年の山陽スコット問題でロレアル・ダル社長に直訴したとき以来です。1985年10月頃だったでしょうか、今度は書状でダル社長に窮状を訴えました。それが功を奏して、ほどなくこのディレクターは更迭されます。
しかしながら、この更迭によって、ロレアル本社の本音が代わるわけでもありません。小林社長はこの時点ですでに、コーセーにとって、如何により良い条件で”ロレアルの独立”を認めるかを真剣に考え始めていたと思います。
一方、アシュレーも、前任者と同じように“ロレアルの独立”を本社から命じられていたはずですが、その穏やかな性格やコーセーの功績に対する高い評価から、手をこまねいていました。
それでも、前任者の更迭を機に、アシュレイ/小林社長との間で腹を割った話し合いが始まりました。
その結果、まず、ロレコスの事業を成功させることが肝要ということで一致したとのこと。その上で、10年先を見据えた戦略を練っている、とアシュレーは私に話してくれました。
そして、その大きな波が1987年にやってきます。やっと落ち着いたばかりの森ビルから、ロレコス/コスメフランスは一番町FSビルに移転するというのです。驚いたことに、コーセー本社に拠点を構えていたコーセーコスメタリーも同ビルに移り、同居状態になるということでした。
アシュレーの説明によると、小林社長と合意した戦略の骨子のなかに、“ロレコスとコーセーコスメタリーの合併”という計画が盛り込まれてはいるが、全く異質の二社が突然合併しても成功は望めないので、まずはこの二社を同居状態に置き、合併に向けての予行演習を開始したい、とのことでした。
(注1)
乱売:採算を度外視してむやみに安く売ること
(注2)
制度品ルート:コーセーから直接仕入れるルート。定価販売をモットーとする。
(注3)
問屋ルート:問屋を仲介して仕入れるルート。値引きによる競争が熾烈。
(注4)
朝シャン:1980年代中盤から、朝早く起きて、シャンプーをしてから通勤、通学する「朝シャン」が若い女性のあいだに流行し、中には一日数回シャンプーする高校生/大学生が現れたりした。また、シャンプーが手軽に、短時間でできるような商品が開発された。シャンプーとリンスが一度で済む、リンスインシャンプーのほか、裸になって風呂場まで行かずとも、洗面台で髪を洗えるシャプー・ドレッサーが登場した。
次回は、「第七十八話 合弁会社化、そして合併へ」です。
【安 本 總 一】 現在 |
▲ページ上部へ