私と柔道、そしてフランス… ー 第七十五話 ロレアルの気になる動きー
早大柔道部OB
フランス在住
- 第七十五話 ロレアルの気になる動き -
さて、いよいよカナダ・ロレアルの大物が赴任してきました。日本のロレアル・グループの代表という位置づけでした。ロレコスのアルナル社長によると、彼はパリ本社の立てた長期計画の“執行者”としてやってきたのであり、それだけに強引にことを進めるだろう、ということでした。
その彼のアシスタント役を私が負うことになりました。
アルナル社長の言葉通り、1982年~1983年に、彼は次のような数々の大きな動きの采配を取ります:
- | その前、1978年に、㈱ニコフランス(ロレアルの高級化粧品部門とコーセーとの合弁会社)が設立されていました。この合弁会社が、日本の高級化粧品市場で苦戦していて、 コーセーにとって重荷になっていたのを彼は見抜き、コーセーの持株をすべてロレアルが買い取り、ニコフランスを“独立”させます。 |
- | ロレアルの関連会社すべて(新ニコフランス/ロレコス/コスメフランス)の拠点を東 京・麻布台の「メソ ニック39森ビル」に置こうとしました。しかし、ロレコスのアルナル社長とコーセーは「移転の必要性は全く無い」として拒否、ロレコスとコスメフランスはそのまま銀座オフィスにとどまり、取りあえず、新ニコフランスのみを1982年9月に森ビルに入居させます。 |
- | 日本で最初の研究開発施設を同ビル内に開設します。 |
- | ヘレナルビンスタイン社を買収。同社の御殿場工場を手に入れることにより、ロレアルとして、独自の生産体制を整えました。 |
【メソニック39森ビル】 右側手前から4棟目 | 【日本で最初の研究施設】 |
こうした一連の動きを知ったコーセーの小林禮次郎二代目社長が、あるとき私に「これでロレアルはいつでも独立できる体制に入った!」と警戒を強めていたことを思い出します。
折しも、ロレアルの二代目社長のフランソア・ダルが、ロレアル・カナダの美容室向け製品部門で活躍しているデイヴィッド・アシュレーを伴い、1983年2月に来日する、との知らせが入りました。
アシュレーは、大物ディレクターの補佐として、とくに、ロレコス/コスメフランスの責任者として赴任するという!
この人事の重要性は、この年がロレアル/コーセー提携20周年を祝う年で、様々なイベントが計画されているにも拘らず、ダル社長はアシュレーをコーセーに自ら紹介することを、何よりも優先させたことでも分かります。
このことを一番喜んだのは、コーセーの小林社長でした。デイヴィッド・アシュレーは、他でもない、数十年前に研修で訪れた英国・ロレアルで世話になったシリル・アシュレーの息子だったのです。しかも、ダル社長が、儀礼を尽くして、自ら彼を紹介するというのですから。
アシュレーの赴任に備え、ロレコスとコスメフランスのメソニック39森ビルへの移転が、急転直下、アルナル社長及びコーセーの了承を得ました。ただ、ニコフランスとの同居は避け、別の階に入居します。これはアルナル社長とコーセーの移転了承の条件でもありました。この2社はあくまでもロレアルとコーセーの合弁会社であり、100%ロレアルのニコフランスとは立場が違うからです。
また、ロレコス/コスメフランスの新体制下で、コーセーは、ロレコスに、雨宮慎一(注1)さんを取締役として送り込んで来ました。かつて1967年末に、小林禮次郎専務(当時)の懐刀として専務に同行し、山陽スコット問題を討議するためにロレアル本社に乗り込んだ異才です。彼は、合弁会社のパートナーとしてのコーセーの立場で、経営に参画するだけでなく、ロレアルの動きを監視する役目も負っていることは明らかでした。
この合弁会社2社には、日本人男性社員は私一人だけの状態が続いていましたので、相談相手としての雨宮さんの参入は私にとって願ってもないことでした。
こうして、日本のロレアルは大きく変わっていきます。
(注1) | |
雨宮慎一: | 現在、化粧品・美容関連のマーケティング情報誌「beauty buisiness」などを制作・発行する「ビューティビジネス・グループ」代表 |
次回は「第七十六話 スタイリング・ムース“フリースタイル”発売!」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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