私と柔道、そしてフランス… ー 第五十九話 悪いことばかり続きます... ー
早大柔道部OB
フランス在住
- 第五十九話 悪いことばかり続きます... -
この二つのショックの影響を受けて、高配当を誇っていた日本電子本社が1974年3月期には減配を余儀なくされます。そして、イタリアの現地法人の展示場が閉鎖されました。
これらの事実は、直ちに日本のマスメディアに取り上げられ、ライヴァル会社の格好の宣伝材料になりました。ライヴァル会社の社員がそのニュースを伝える新聞記事と辞書を持って、「JEOL危うし!」とPRして回っているとの噂も耳にしました。
そんな中、日本で大変悲しいことが起ります。
前年、フランス・ルーアンでお会いした風戸社長の次男・裕さんが、富士GCに出走中、事故に巻き込まれて亡くなるという信じたくないニュースでした。両親・婚約者も観戦中だったとのこと。
ルーアンのレース場で社長と裕さんが交わした笑顔と、裕さんのレースを食い入るように観ていた社長の姿を思い出して、言葉もありませんでした。
風戸社長は、その晩、風戸家に戻った遺体の前で立ち続けていたとのこと。
このことが、あたかも日本電子の経営の崩落に拍車をかけたかの如く、状態は急激に悪化し、1974年度には大赤字を計上して、1975年3月期に無配当に転落します。
この事態の責任を取って、風戸社長は1975年5月に相談役に退任。新社長には加勢忠雄氏が三菱銀行から迎えられます。
この頃、フランスの営業戦列にはイタリアから恩人・富永雅之さんが、ベルギーから若手のホープ・宇佐美亨さんが加わり、フランス現地法人の営業力が大変強化されました。
それでも社内では、この現地法人体制が維持できるかどうか話題になっていて、以前のように代理店営業に戻るのか、全てを商社に任すことになるのか、などの議論が盛んでした。このいづれの場合でも、多くの日本人が帰国あるいは失職、多くのフランス人が職を失うことは自明の理でした。
ただ、この危機感が、30名ほどの日仏連合チームの結束を強めたのでしょうか、平松敦実専務の報告書によると、なんと1973年度のフランス現地法人の総売上げ高は過去最高、1974年度はさらに伸び、私がフランスに赴任した1968年度のそれの3倍に達していました。因みに、1974年度の大型透過型電子顕微鏡(TEM)の売上げ台数は16台で、走査型電子顕微鏡(SEM)は7台を記録しました。今もって信じられない数字です。
しかし、年度内に売上げ計上するには、正確な受注計画を立てて、それに従ってかなり余裕を持って船積みしてもらわねばなりません。受注生産などは考えられない世界です。また、船積みしてから、それがお金に変るまで、かなりの月日が掛かりますし、円高によるCIFの高騰、支払利息の上昇などで、経常利益は吹っ飛んでしまいます。苦しい苦しい経営状態は変りませんでした。
この頃は、どの国の現地法人でも同じ問題を抱えていたと思います。
それでも、メイン・バンクが、我々を見放さなかった理由は、もちろん「JEOLの電子顕微鏡がなければノーベル賞はとれない!」とまで言われた本社の技術力だったでしょうが、1973年、及び1974年の数字が示す営業力にも期待するものがあったのではないかと、今でも自負しています。
次回は「第六十話 帰国命令」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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