私と柔道、そしてフランス… - 第五十三話 パリでの仕事は...-
早大柔道部OB
フランス在住
- 第五十三話 パリでの仕事は... -
1970年初夏、三度目のパリ長期滞在が始まりました。
日本電子のヨーロッパ本部は、パリの西方約10㌔のベッドタウン、ルエイユ・マルメゾンにありました。この街にはナポレオンの妻ジョゼフィーヌの居館になったマルメゾン城があります。私の住居も市内に見つけました。
当本部は、日本電子のヨーロッパ進出の拠点になったところで、そこに、東欧本部、西欧本部、それに私が所属するフランス現地法人「JEOL(Europe)S.A.」の3世帯が同居していました。付随する展示場には、透過型/走査型電子顕微鏡(TEM/SEM)、核磁気共鳴装置(NMR)のデモ機が設置され、ヨーロッパ中の顧客を迎えていました。
このデモ機を操作するのは、とくに選ばれたヴェテラン中のヴェテラン・オペレーターで、それぞれの機械が持っている最高の性能を引き出し、説明し、お客様が納得するまで議論できる優秀な技術者達です。
その中の一人がすでに第二十二話でご紹介した奥住宏さんです。日本電子の電子顕微鏡輸出第一号機は1955年にフランス原子力庁サクレー研究所から受注しましたが、その納入サーヴィスを担当したのが奥住さんです。その後、同機のオペレーターとしてサクレー研究所に残るため、日本電子を退職するという稀有な経歴の持ち主です。そして、1968年に復職、SEMデモ機担当として、得意のフランス語を駆使して活躍していました。
さて、パリでの私の役割については、当初は電子顕微鏡のセールス責任者ということでしたが、しばらくして、西欧本部の竹内支配人から、部長として営業部をまとめなさい、との通達がありました。彼は同年9月にJEOL(Europe)S.A.の社長に就任します。
差し置かれた形の先輩セールスマン、グリエネさんやミッショさん達にとっては、納得の行かない人事だったと思いますが、それでも、二人とも定年まで同社で活躍。とくに、グリエネさんは、80年代後半に同社の社長に就任しました。
私の最初の仕事は、主要機器のフランス全体の市場状況を把握することでした。
まず、全体的には、理化学機器メーカーとしてのJEOLの認知度は申し分なく、当初問題にされたアフタサービス体制も充実してきていて、あとは営業力が問われる状態になっていました。
そして、当然、機種ごとに強力なライヴァルが、少数とはいえ、存在しました:
-TEM(透過型電子顕微鏡):フィリップス(オランダ)、シーメンス(ドイツ)、日立、 オー・ペー・エル(フランス)
-SEM(走査型電子顕微鏡):ケンブリッジ(イギリス)、カメカ(フランス)
-NMR(核磁気共鳴装置) :ヴァリアン(アメリカ)、ブリュッカー(ドイツ)
ここで特筆したいのは、TEMのシーメンスの存在です。ドイツ人・ルスカが開発したTEMをシーメンスが1938年に商用第一号機として世に出したからでしょうか、この頃にはかなりオールド・ファッション化していましたが、フランスには根強いファンが多く、それもなぜか医療・生物関係の研究所で絶大な信頼を集めていました。
この牙城をジェオルはなかなか崩せませんでした。 あるとき、パリの有名病院の病理研究所でTEMの購入計画があることを聞き、著名な担当教授と面会しました。JEM-100Cについて自信を持って説明したところ、教授は「説明を聞いていて、日本海軍の“戦艦大和”を思い出した」と言うのです。その理由を尋ねたところ、「最新の装備を備え、最強の戦艦として出航した戦艦大和が、結局、アメリカ軍の集中攻撃にあって撃沈されてしまったではないか!ジェオルのTEMは、装備は完璧だが、実際に仕様通りに稼動するのか?」というものでした。
この頃のフランスでは、「カメラはライカ!車はシトロエンDS!」というような感覚的な選択をする人が多く、医療・生物関係では「TEMはシーメンス!」だったのです。
次回は「第五十四話 ライヴァルとの熾烈な戦い(その一)」です。
【安 本 總 一】 現在 |
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