RSS

愚息の独り言 バックナンバー



幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

愚息の独り言

メルマガ購読お申込みはこちら







メルマガ著者紹介


愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



愚息の独り言 メルマガ解除ページ

※現在メルマガが配信されているアドレスを入れて、解除ボタンをクリックして下さい。
確認画面がございませんので、解除ボタンを押される前にお間違いがないがご確認の上、押して下さい。






愚息の独り言 第50話「長い間有難うございました」


愚息の独り言 第50話
「長い間有難う御座いました」

2016年8月19 日



後書き

自分自身は特別変わった少年では無く、 当時としては多少世間一般の人よりも変わった境遇だったため一人で苦しむことが多かった。

必死で世間の皆と仲良くなり多くを共有できるようになることが夢だった。 その努力は今でも決して悪い事には思えないが世間一般の人達に近づくにつれ商売もうまくいかなくなって行った。 変わった子は変わっているがゆえに 皆が見えない事が見える。

我々人類は戦うために生まれてきたのだとすると 永遠に戦い続けなければいけない。しかし 人間はそんなに強い生き物なのだろうか? 肉体を鍛え、頭脳を鍛え、精神(心)を鍛え続けなければいけないとするならば、 そこへ導いてくれる あるいはきっかけを作ってくれる人との 出会いが大事になる。

長年生きていると 人間にとって運がすべてに感じてならない。 運をつかむために努力し、努力する事によって素晴らしい出会いが生まれる。 出会いによって無駄な時間を、無駄な人間関係で時間を無駄にすることがなくなる。 この年になって それがやっと少しわかってきたような気がする。



京都の賢者の話。

ある女性が肺に癌が見つかったため、医者から競技をやめて手術をするよう告げられた。 その女性はある競技で既に日本チャンピオンであった。

彼女は米軍基地で産み落とされた。
今で言うハーフだが昔は あいのこと呼ばれよくいじめにあった。 自分の様な思いをさせたくなく、子供を持つ人生は送らないと決心して生きてきた。 そしてある競技に子供のころから没頭し、日本チャンピオンの座に就いた。しかし彼女は満足しなかった。
どうしても世界選手権に出る夢を捨てきれなかった。

肺の手術をすると当然世界選手権には出られない。
そこで彼女は賢者に治してくださいと懇願した。 すると賢者は昔あった出来事を話した。 それは彼女と同じ境遇の母子家庭で5歳ぐらいの、あきらかに黒人とのハーフの男の子の事だった。

ある日その男の子に賢者は尋ねた。
「坊やさびしそうな眼をしてどうしたの?」
「みんながあいのこって言って虐めるんだ。あいのこってどういう意味?」

賢者は答えた
「坊や、”あいのこ”っていうのはね、神さまからも多くの人達からも愛されている子どもの事を言うんだよ」 愛の子。

その瞬間からその子は人が変わったように他の子供たちと仲良く遊ぶようになり、多くの友達が出来た。 母親が賢者にどういった魔法を使ったのですか?
何を言ったのですかとしつこく尋ねた。 賢者は答えなかった。

この話を聞いた日本チャンピオンは感動の涙に咽び、 なんとその後病院のMRIでは肺の白い影が消えてしまっていた。

もっと早く聞いていれば彼女の人生は変わったかもしれない。 いやそうだとすると彼女は日本チャンピオンにはなれず、 世界大会に出場する資格も無かったかもしれない。
しかし賢者の言葉で彼女は救われた。
数か月後、世界大会が行われ、彼女は念願の出場を果たす。
素晴らしい結果を心から祈っている。

神は乗り越えられない試練は与えないと言うが、 彼女は気高い精霊を持って生まれてきた人なのだろう。
「道上伯」とは字画で言うと非常に苦労する名前だそうだ。 確かに幾度となく死にかけた。 だからそれに耐えうる魂がその名で生まれてきたのかもしれない。



▲ページ上部へ


前号へ | 次号へ

愚息の独り言 第49話 「七転八倒」


愚息の独り言 第49話
「七転八倒」

2022年5月10 日



高校時代に話をさかのぼりますが、 相変わらず地下鉄の入口、雑誌anan、nonno 等に、『フランス語教えます』の無料広告を載せ 父も母もフランス、どこの馬の骨か分からない少年は必死の思いでした。

学校でも小学部の生徒の父兄などに”3カ月前にフランスから帰って来ました”、”半年前に帰国しました” と言ってフランス語の生徒の勧誘をしました。
そんな中で最初の生徒さんが安藤さんと言う女性でブロードウェイ・ミュージカル『Hair』に出ていた方でした。彼女に日本で最初のガールフレンドも紹介されました。

そんなある日、我が高校の修学旅行、九州だと思いますが。 私は参加せず。勝手に一人で九州一周。 途中大阪万博に立ち寄りフランス館に。
フランス館長に会わせてくれとお願いし、何か仕事を下さいとお願いした。 勿論どこの馬の骨か解らない高校生に仕事などまわしてくれるはずはない。
デパート、ホテル色んな所で仕事を下さいと・・・お願いして廻った。

高校生のガキを採用してくれるところは有りません。ましてや帰国子女を。 しかしフランス館で江部さんと言う非常に美しいフランス在住の女性と知り合いました。 フランス館で館長のアシスタントをされていたように記憶しています。

3年後に江部さんの妹さんに呼びかけて頂き、カナダの13歳の少年が日本に来ると。 その通訳兼ロードマネージャーをお願いされる。無骨者の武道家庭、音楽には無縁。 日本側はレコード原盤制作会社。後日本でも最大級のレコード会社も立ち上げられました。 何とその会社の社長さんは我が母校の先輩(高校)。しかも大学から当時有名だったタイガース等に作曲され。 ユーミン、YMOなど多くのミュージシャンを輩出した。業界でも新しい旋風を巻き起こした会社です。

社長さんはまだ20代? 30代?と若く、運転手付きのグレイ?白い?ベンツに乗って居た。 最初のギャラ交渉で、僕はギャラは要らないから社長の家で生活させてほしいとお願いするがそれは断られる。 しかし高額のギャラを頂く。

そしてカナダ13歳の少年ルネ・シマールを飛行場に迎えに行く。その彼は東京音楽祭に出演するために社長の作曲「ミドリ色の屋根」を引っ提げての来日。 ワクワクする中で初対面。
ワ~!参った!カナダのズーズー弁は僕には通じない。 しかも一般の会話のボキャブラリがフランスとは違う! (後にニューヨークに行った時タクシーに乗ったが、運転手が黒人で僕の英語が通じないその境地)
アー!参った!
色々テレビ局、雑誌社廻り、テレビの場合:音合わせ、カメラ・リハーサル、ランスルーと本番前に多くの場面で歌うが、 この少年はどのリハーサルでも全力で歌う、大人には出ない美しい声で。その度に競争相手の他の出演歌手から拍手喝采。



どえらい仕事を頂いた。勿論彼は東京音楽祭グランプリ-。フランクシナトラ賞トップを総なめ。 僕は凄い体験をさせて頂いた。

13歳の坊やなので、コンサートの時などもインタビューなども「ヨヨ(道上のあだ名)適当に答えておいて!」とくる。 自分自身がそんなに機転の利く男では無いので会社の方に大変御迷惑をかけた。 コンサート会場で「ルネ君はガールフレンドは何人居るの?」の問いに(えーと、えーと) 僕は勝手に「この会場の皆さんは全員ガールフレンドです!」等と適当に。

ただ大掛かりの記者会見の席上で記者の質問を上手く訳出来ず記者を怒らせてしまった事が有る。 その時社長様にお叱りを頂き、もっと日本語を勉強するようにと、森鴎外や島崎藤村を読むようにと言われたが、そのレベルには達していなかった。 新聞ですら、スポーツ欄しか読めない自分。大変ご迷惑を掛けました。

こんなことの繰り返しで、大学在学中(25歳)に現在の会社を立ち上げ今日に至っております。

この場をお借りして村井邦彦様には心より感謝しています。
大変お世話に成りました。有難う御座います。


▲ページ上部へ


愚息の独り言 第48話「心の叫び 2」


愚息の独り言 第48話
「心の叫び 2」

2016年8月12 日



僕が帰って来た当時の日本は外国帰りに非常に冷たく、就職も困難でした。
僕は就職が出来なかったので学生時代に会社を興し、今日まで一度もサラリーマンの経験がありません。 その事は長きに渡って僕のコンプレックスになっていました。


【TV ヤング・オ・オ!】
Rene Simard (中央)道上 (右)三枝
ただ、悪い事ばかりというわけでもありません。

日本語が出来なく、フランス語が出来なく、半端者の自分ではありますが、 当時僕以上にフランス語会話が出来る者はいなく、また僕以上に日本語が 出来るフランス人もいませんでした。

そのお蔭で通訳なんぞをやり、高校時代からしこたま稼いだものです。誰も僕の訳に反論できなかったのです。

ただ通訳なんて職業はあまり好きでは無く、しかも自分にとっての将来性を感じていませんでした。 なぜなら、英語の通訳をやっていた人たちは日本語がそこらの日本人以上に堪能で、 なおかつ英語が一般のアメリカ人以上に使いこなせるという人たちばかりを見て来ていたからです。

一方フランス語の個人レッスン、特に会話を教えていましたが、生徒さん達は憶えるより忘れる方が早い。 何とか上手くなって欲しいとの願いでフランス人家庭のベビーシッターのアルバイトを勧めたり日常フランス語を使える環境を指導しました。
当時フランス人の少ない東京でした。 中には、僕がフォローしてあげるから通訳をやってみないかと勧め、何とか頑張ってくれた生徒たちもいました。

その通訳フォローがきっかけで知り合ったフランスの宝石屋の代理店になりました。
しばらくは全然売れなくてお客さん詣でばかりの毎日でした。 当時日本ではプラチナ製品しか売れず、金製品は全く売れなかったのです。

しかし貯金が底をつき、いよいよと思っていた時 突然金製品が売れるようになりました。 日本でヨーロッパの金製品を扱う者は僕一人でした。 そしてその後は輸入金製品業界を作ったのは僕だと言われてきました。僕しかいなかったのです。
何が功を奏するか分からないものです。

日本初のフランス宝飾展を大阪で開催し、日本初のイタリア宝飾展を東京で開催したりしました。 全てにおいて、前例が無いということは人間を不安にさせるものです。 しかし実際は前例通りに世の中は動いていない。
大きな会社ならそのマイナスは あまり目立たないですが、小さな会社(僕の会社のように)は 多少のフライングを覚悟で行動しなければ生きていけません。 ひょっとしてその方が正しいのかもしれません。 僕の会社が小さいのは、僕の器のせいだと思っています。

世界の成功者が口を揃えて言っている事は 「失敗を後悔した事は無い。挑戦しなかった事の後悔は大いに有る」 。 そんな前例のない中で自分を信じて生きた人間がいます。

父道上伯は2002年の8月4日、日本に一時帰国中亡くなりました。
その後ボルドーの彼の書斎で見つけた紙切れ。 何と彼が亡くなる17年前に書かれていた遺言状でした。
火曜日のメルマガ「もののふ」でご覧になる事が出来ます。

▲ページ上部へ


愚息の独り言 第47話「心の叫び」



愚息の独り言 第47話
「心の叫び」

2016年8月5 日



日本に帰って来たばかりの時、僕の顔を見た人達によくプエルトリコ人と言われました。 その後韓国人と言われ、最近やっと日本人に見られるようになった。

よく日系2世は日本人の顔をしていないと言われますがそれは気候とか食べ物によるのではなく 先週のメルマガでも述べたように言葉の発声によるものだと思います。

たとえば日本で生まれ育ったアメリカ人には顔や雰囲気が日本人に見える人がいます。
ちょっと理屈っぽく言い訳がましい話にはなってしまいましたが、
いたってまともだと思っている本人とは裏腹に 当時僕は変人・フランス人と呼ばれていました。

何かにつけ日本はおかしいと思っていました。 処世術だけで要領良く生きている異人(日本人)の中で、僕自身は外国人扱いされていきます。 僕が父から聞かされていた日本とは大きく異なる現実を目の当たりにし、寂しくも悩んでしまう毎日でした。日本は長いものには巻かれろ、いや短いものにも巻かれろの風潮。 それが得。 フランス人は思った事をはっきり言う。

フランスにいた時、フランス人と喧嘩をしているといつの間にか「僕」対「フランス」の戦いになってしまっていた日々。
背中に日の丸をしょって日本男児という妄想の中で戦って来た自分がいました。

しかしフランスでも外人、日本に帰ってきても外人扱いされる。
思いが募り 「俺の祖国は何処だ!!!」 「僕の愛した日本は何処へ行った!!!」 「俺は誰だ!!!」 身体が凍り付き目頭だけが熱い、そんな毎日でした。

30年前、素敵な女性とランチをする光栄を得ました。
その方は1982年12歳の時にベルギーに渡り、18歳までフランス語圏で過ごしたそうです。 時代は違うが僕と同じ境遇の中で苦しみ、親を恨んだと言っていました。
親を恨むのはおかど違いですが彼女が言った事はよく理解できます。
観光旅行で外国に行くのと移民とでは大きな違いがあります。

人間は3歳で大人の脳の50%が形成され(三つ子の魂100までも)12歳で80%、その後12歳から18歳までが大人になる準備と言われています。 その最も多感な年齢に将来どの様に生きて行くかがまったく見えないという事は、 人に余計な迷走をさせてしまうのです。

フランスで喧嘩する時は相手が何人いようが負ける訳にはいかない。
道上伯の息子だから負けるはずが無い、日本人だから負けてはいけない。
何も喧嘩で発揮する問題ではないのでしょうが、そこだけは譲れませんでした。

宗教に疎い僕がいつの間にか神に話しかけていました。
「神様どうして僕はこんな境遇なのだろうか?」
「どうして僕だけ苦しまなければいけないのか?」
そんな中で唯一の救いが父でした。

1953年に、無償の条件で、言葉も分からない、行きたくもないフランスに 乞われて渡った父。
彼は僕にとって最大の敵でありましたが最大の救いでもありました。

ボルドーの道場に行くと 数十名の生徒が正座して道上伯を待っています。
その間物音ひとつ聞こえません。
年に1度の講習会では各国から集まった柔道教師数百名が正座をして父を待っています。
時には世界チャンピオン級の柔道家が数人立ったまま、声を荒げない父の一睨みで泣いている。

それを見るにつけ自分の悩みはすっ飛んでしまいます。
僕が行った時とはまるで状況が違う時代に単身渡った父。

インドシナ戦争で親兄弟が日本兵に殺されたという フランス人も多くいる中、
ヨーロッパへ渡り、 殺されてしまった日本人柔道家が何人もいたという時代でした。

だが帰国した日本には、僕の父はいません。母もいません。
一時期東京早稲田の交差点の裏に下宿していた事がありました。

その裏の小さな丘では、毎晩「突撃!」と声を張り上げ、
長い竹竿を持って訓練している革マル派の学生(?)達がいました。
昼間ピッピと笛が鳴ると 青いジャージを着て、首に手ぬぐいを巻いて僕は走って行きます。

機動隊と学連の衝突が起こるとすかさずその中に飛び込んで行って両方を殴る。
ぼこぼこに殴られた事もありましたが、なんだか気持ちがよくて、
これ以上のストレス解消はありませんでした。

ある日 白いジャンパーを着た二人の私服警官に突然両腕をつかまれ、連行されそうになりました。 とっさに裏拳を彼らの顔面に当て、その隙に足払いをして逃げました。 慌てました。
もし連れて行かれたら無理して入れてもらった学校は退学!!!
その後は一度も学生と機動隊のぶつかり合いには加勢?しない事にしました。

体育会系のジャージ姿に首から手ぬぐいといういでたちは、どちらにでも(学連にも体育会運動部にも) 取れる格好ですが、おそらく以前から目を付けられていたのだと思いま す。

一方、僕の通っていた九段の高等学校はいわゆるお坊ちゃま学校で、 一学年180人のうち10人ほどの外国帰り(今で言う帰国子女)がいました。 と言っても彼らには殆どが現地でも日本語の家庭教師が付いていました。 だから九段の高校に編入すると1学年落ちで、授業・一般生活に支障は無かった様に見えました。

その学校は年に10人ほど東大に進学していたのですが、当時その半分以上 は外国帰りでした。
しかし大人になって彼らに会った時「道上が羨ましかった」と言われて意外でした。
実は皆悩んでいた、苦しかったのだとその時初めて知りました。
中には精神病院に通っていた学生もいたようです。

子供はダブル語学教育を受ければ良いと世の無知な母親は安易に言いますが
それは子供の心が分かっていない母親です。 あえてそうするものでは無いと思います。

特に当時は日本人とフランス人の発想の原点に余りにも違いがありました。
一つの言語をしっかり習得したうえで、もう一つを習得した方が
バランスの取れた人間に育ちやすいのではないかと思 うのです。

あるオーストラリア駐在員ジャーナリストの弁: 
”これ以上滞在していると英語が上手くなりすぎるので帰国を要請し受け入れられた”。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



▲ページ上部へ


愚息の独り言 第46話 「言語の影響」



愚息の独り言 第46話
「言語の影響」

2016年7月29 日



ところで以前にも二つの言葉が同じぐらい出来ないか、
あるいは同じ位出来るようになると人間はバランスを崩して失語症にかかるという話をしたかと思います。
海馬が人間の記憶をつかさどる所と言われていますが、
2か国語同レベルに成ると、海馬が言葉を引き出すのに混乱を招くようです。

要するに2つ以上の母国語か同水準になったとき。多くの問題が起こってしまう。

真言(マントラ)「あ~」と大声で発声して見て下さい。肺が共鳴します。
スペイン語にはこのアと言う発音が多く一般にスペイン人は情熱的 又は情緒的と言われています。柔道の練習でスペイン人を投げ飛ばすと、怒った形相をする。プライドが高いのだ。 たかが練習で・・・。

一方「い~」と言う発音は眉間(第三の目・眉毛と眉毛の中間の少し上)を共鳴刺激し、
人間がストレートに表現するようになると言われています。
「君を心底愛しているよ! 来世も君といたい!」と言っておきながら
その数分後には別の女性に同じことを言っている。そう、イタリア語に多い発音です。

そして「え~」と言う発音は英語に多く「え~」と大きく発音すると
リンパから甲状腺に掛けて共鳴し刺激する。
そうすると人間の発想行動が非常に合理的かつ シンプルになるそうです。
そういえば英語圏での発明は物事を簡素化しスピーディにするものが多い。
ファスト・フードなどはその典型だ。ただ単純で情緒が無い人が多くなる。
損か得かしか考えない、そうアメリカ人だ。

余談だが、世界では3か国語出来る人をTrilingual 、2か国語を喋る人をBilingual、 1か国語しかできない人をアメリカンと呼ぶ。

「お~」と言う声を高らかと発すると心臓に共鳴する。ロシア語に多い!
超常感覚機能を発達させる要素が有る。
ロシアと言う国はラスプーチンを筆頭に 念力者が多く、
テレパシーの訓練では世界で群 を抜いている。

では日本語はどうでしょう。

この4つには属さないですが、欧米の音楽がメジャー・コードに対して日本のそれはマイナー。
欧米のオペラの発声に対して日本の小唄、長唄、詩吟などはいったん声を飲み込んでから発します。
率直になんでも言わない、思いやり深い日本人の心も この辺が影響しているのかもしれません。
いや、日本人の特性が 日本語の発音を変えてしまったのかも。

「僕は↘」「食べた↘」とまるで韻を踏んでいるかのごとく
音が落ちるように発音しますが、フランス語など 「Je suis ↗」と上がる場合が多いです。
ある三味線の家元から聞きました。日本の表現とは音と音の間の「間(ま)」が・・・表現だと。

話は飛びますがイスラエルのテルアビブ大学の四年生が習う哲学”カバラ”には最初 ”無” 次に ”無の空間”◯ その後に”有”☉ 象徴主義では太陽を表す。を教わる。
最初に無が来るところが面白い。

ではフランス人は?

フランス語の特徴はR(G?)。ライオンが鼾をかいているような音。これは肝臓を刺激します。
ある意味でフランス人は 日本人に近いのではないかと思うほど感性が豊か です。
一方芸術的表現力はイタリア人スペイン人に劣るもののその分析力・批評力は高いものが有ります。
このフランス語独特のRの発音は異次元の感覚を鍛えるそうです。
またフランス語は 非常に単語の意味そのものが明確で、数字の単位にあてはめ易いとも言われています。フランスの文学作家又は哲学者には数学者も多い様です(パスカル・人間は考える葦)。

ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、
世界中 同じ服装で同じ音楽を聴き同じように考えているかの様に見える現代の若者と違い、当時はあまりにも違いが多く、そして世間はそれに目を瞑っていた感があります。

では現在はどうでしょう?

本当に世界は一つなのでしょうか?
やはり理解されない日本人の行く末は?理解しない日本人の行く末は?
問題は現在にも引き継がれているのです。

来週は 道上雄峰の嘆きを聞いて下さい。


続く




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



▲ページ上部へ


ページトップへ