RSS

愚息の独り言 バックナンバー



幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

愚息の独り言

メルマガ購読お申込みはこちら







メルマガ著者紹介


愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



愚息の独り言 メルマガ解除ページ

※現在メルマガが配信されているアドレスを入れて、解除ボタンをクリックして下さい。
確認画面がございませんので、解除ボタンを押される前にお間違いがないがご確認の上、押して下さい。






愚息の独り言「フランスでの生活 第36話 アルカッションでの生活 2」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第36話 アルカッションでの生活 2」

2016年5月20 日



アルカッションの寮ではまず自分の名が付いた布の名札を服、シャツ、タオル、靴下、パンツに縫い付けなければいけない。これは洗濯に出す為である。
洗濯物を週二回ベージュ色の布袋に入れてベットの上に置いておく。
すると3日後には洗濯してたたんだものをまたベットの上に戻しておいてくれる。
洗面セット、靴磨きセット、などの用意をする。

初めての事だが名札を手で縫い付け終わった後、靴にべったりと歯ブラシで靴墨をつけ新聞紙を中に入れ一晩陰干し、翌日大きめのブラシで磨き、その後布で艶出し。艶出しは毎朝する。

ベッドは全部シングルで高さ130cmの壁で仕切られていて4台ずつ両脇に並ぶ。
舎監(寄宿舎監督人)の部屋が中央にあり、そこだけがカーテンで仕切られている。


舎監は大体学生のアルバイトだが昼は大学、夜は舎監、中には夏はクルピエ(カジノでのルーレット回し札配り)をやって夏休みが終わると舎監に戻る人もいた。

アルカッションには夏の間だけ(バカンス期間中)カジノが立つ。
カジノのアルバイトは凄い。稼いだ客はチップをはずむので月に一人100万はくだらない額になる。 今のお金で月700万円ぐらいかな?この仕事は一種の利権で、自分が辞める時に引き継ぎの人から当時の金で1,000万円以上の権利譲渡金をもらう事になっていた。 今の金で7,000万円位だろうか?
金額が桁違いだがまるでパリのキャフエ・ギャルソンみたいだ。

当時パリで有名キャフエのギャルソンは月チップだけで50万ほどの収入があった。
その中から20万ほどお店に支払わなければいけない。
勿論お店から給料は出ない。昔はサービス料は値段に含まれていなかった。
キャフエのギャルソンも一種の利権であり辞める時には引き継ぎで当時で150万ほどもらえるギャルソンもいた。
当時日本の大卒初任給が2万に届かない時代でしたので、信じ難い話です。

話はアルカションに戻る。
このようにバカンス期間中の夏の町は賑わい楽しいが、冬はまったく退屈な所だった。 寮の朝は7時起床、シャワー浴びて歯磨き。当たり前の事だが寮生徒の方が普通のフランス人よりも清潔である。

朝食をとって寮生のクラスで授業が始まるのを待つ。
午前の授業は9時から12時迄で1教科は50分。10分で他の教室へ移動しなければいけない。
クラシック・クラスかモダン・クラスを選ばなければならず、クラシックはラテン語ギリシャ語が付け足される。 僕はモダンクラスを選んだ。

第一外国語を英語、第二外国語をスペイン語にした。授業に出て驚く事ばかり。
たかが2、3年の授業で喋れる生徒が結構いた。 こちとらは”まこと君はい”ではないが、”ディス・イズ・ア・ペン“である。
ちなみにフランスで最初に習うのは”マイ・テーラー・イズ・リッチ”(私のテーラーはお金持ち)。―そう言えば昔日本もフランスもテーラーが沢山いた。

教室は広く、天井は高く窓も高い位置にあって、生徒は各クラス20人ほどだった。 日本のように1クラス 50人でひそひそ話、カンニングと言うわけにはいかなかった。
寮生徒の人数はおそらく全生徒数の4分の1、現地アルカッション界隈の憧れのリセ(中高等学校)だった。
昼食が12時から、午後の授業は14時から始まり17時まで、その後19時の夕食までは遊ぶ者、勉強する者、さまざまに過ごす。
夕食が終わると21時から寮生徒専用のクラスで自習、22時からシャワーを浴び23時消灯。 23時から翌朝7時まではドアに鍵がかけられ表には出られない。


来週は新寮生歓迎会をお届けします。


【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


前号へ | 次号へ

愚息の独り言「フランスでの生活 第35話 アルカッションでの生活 」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第35話 アルカッションでの生活」

2016年5月13 日



ドアンスの生活は既に1年となり、僕のフランス語も多少の進歩があり、
中高等学校(Lysee)へ編入する事になった。
そのリセは、アルカッション(Arcachon)と言うフランス有数の避暑地にあった。
ボルドーから西へ約54km、フランスで言うなれば南西一の高級避暑地であった。









アルカッションは大きな湾に面していて町(7.56km²)だけでも1962年には人口1万5千人が、湾に沿って( 329Km²)住んでいる住民は6万2千人。
多くの有名人の別荘が立ち並ぶ。

サルコジ前大統領なども別荘を持っていて、
かの有名なアラン・ドロンのお気に入りの別荘もある。



湾の水温は年間通しておよそ20度と温暖なため美味しい牡蠣が育ちやすかった。そのためか養殖量はフランス全土の83%を占めている。

町に出ると、いたるところで生牡蠣に白ワイン、又はロゼ・ワインで食べている姿が見られる。 日本の様にお皿に3個などと言うしみったれた食べ方はしない。一人2ダースは食べている。まるで生牡蠣でおなか一杯にするかのごとくである。



ピナス (pinasse) と言うアルカッション特有の船の往来を眺め、そよ風を受けながらテラスで冷やしたワインを飲む。 何とも優雅と言うかのんびりした気分がうらやましい。







湾にはヨーロッパ一、高い砂山デュンヌ・ド・ピラ(dune de Pyla)がなだらかに湾へ注いでいるかのようであるが(100m超)。 実際の所は海からの風が陸に向かって毎年1mずつ押し進んでいるそうだ。








そんな風光明媚な場所にあるリセ・グラン・テール校(Lysee Grand air)の寮に入る事となった。この中高等学校名は大いなる(空気)環境を意味する。
建前は喘息、身体に問題のある生徒たちの為の学校であったが、実際の所ほとんどの生徒はコネによってフランス中からやって来ていた。 広大な敷地の中にはサッカー、ラグビー、テニスとなんでも出来そうな場所でしっかりした校舎が存在していた。












【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


愚息の独り言「フランスでの生活 第34話 ボルドーでの生活 5」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第34話 ボルドーでの生活 5」

2016年5月6 日



ドアンスとは何もない所だった。
見渡す限り景色に色の変化が無い。
松林、偶に牧草、偶にトウモロコシ畑、昔湿地帯に植えた松が林となってピレネ山脈まで約350km連なっている。

松も日本の盆栽のような地を這ったものではない。

ただまっすぐ天に向かって30メートルほどの高さに無機質に伸びているだけ。
それらの松は皮をむき垂れて来る白い液体を壺ですくう。これが風邪薬の原料に成るらしい。

そんなところの秋が深まり始めた朝もやの中をアラン、ブルノと一緒にジョギングをする。網で囲った壁の中にパリからのセップ泥棒が登場。セップは日本で言うならマッタケのようなシャンピニオン。 これは美味しい。日本のマッタケより全然美味しい。

日本のマッタケは香り、味、共に上品だが、セップを塩少々とオリーブオイルでソテーすると、とんでもなく美味しい。 イタリアのポルチーニ、パリのセップとは似ても似つかない。これがパリでは高値で売れる。
ドアンス近辺だと今の値段で一人2000円もあれば
フォアグラ、セップ、ステーキ、ワインが食べ放題飲み放題!しかも美味しい。
おそらくパリでは10倍のお金を払っても味わえない。

松林が途切れると、トウモロコシ畑だ。
これがジャガイモ同様、多くのフランス人を戦時中餓死から救った。

牧草には牛、鶏が優雅に遊んでいる。デカい!何故こうも違うのだろうか。
パリの鶏肉は日本の倍はあろうか?しかしこちらの鶏肉はさらにパリの倍はある。
走り回っているため、肉は少々硬いが味が有る。
そんな森林浴最高の食材。

ただ寂しい所だった。街灯など滅多にない。遊び場もない。
週に1回水曜日の夜15キロ離れたところに映画を見に行くぐらいだった。

偶にではあるが、日本の田舎のお祭りの様にBALL(ダンスパーテイー)、ToroFuego(炎の闘牛)、葡萄狩りなどが年に1回。 今頃は(5月)ミミザンと言う小川のほとりにキャンプを張る。 勉強以外にやることがない。



でもフランスの勉強は面白くない。何でも丸暗記。まるで日本の戦前のやり方。
特に僕の様にフランス語が不得意だと言葉が頭に入ってこない。
数学も計算式・答えでは無く、定義、方程式が優先され理屈っぽいため、
いつもちんぷんかんぷんだった。

そう言えばフランスの数学者には哲学者が多い。
数学が出来ないと哲学も理解できないという程理論性を重視した。
僕にとっては意味不明。

小学校復習のクラスの卒業国家試験があるが、僕はこの試験を滑ってしまった。
フランス人の半分も合格しない。合格すると当時は新聞にも名前が載る。

けっして難しい試験ではないのだが、フランス語のディクテ(dictee) と言う書き取り試験がある。これが難しい、5字間違えると零点。

当時フランス人の86%は文盲であった。日本では考えられない事であったが。

一方世界中にフランス語普及のためフランス語学校を設置した。
だからだろうか?フランス人は外国語が苦手。

わけのわからない将来性にも危惧するフランスでの勉強・・。
僕の将来はどうなるのだろう?



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


愚息の独り言「フランスでの生活 第33話 ボルドーでの生活 4」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第33話 ボルドーでの生活 4」

2016年4月29 日



ロベール夫人のマルギョリット・ロベールさんはドアンスに唯一在る小学校の先生兼校長だった。 小学校と言っても1年から復習のクラスまで全員で30数名の学校だった。僕はその復習のクラスの2年生に入った。

マダム・ロベールは非常に頭の固い人でペンの持ち方、鼻のかみ方一つにおいても非常にうるさかった。 日本での鉛筆の持ち方は鉛筆を立てて持つが、
フランスのペンは寝かせてまるでおはしを持つかのような持ち方だった。
しかも物差しでヒステリックに指を叩いて注意する。

鼻のかみ方も日本の様に両手でハンカチを開いてかむのではなく
ハンカチのど真ん中を痰壺の様にしてかみ、 その後それを丸めるようにする。
非常に不衛生で、フランス人が持っている習慣の中で最も嫌いだった。
それを強要される。いやでいやで仕方がなかった。
自分は日本人としての誇りを持っていたので
そう言った汚いやり方は我慢がならなかった。

しかも 言う事を聞かないと長男のアランに頭を叩かれる。
日本人に叩かれるのではなく嫌いなフランス人に 叩かれるのは我慢がならなかった。プライドがぐじゃぐじゃにされて行った。 特にあまり年が離れていない女の子のフランス人に頭を叩かれるのは我慢が出来なかった。
だからと言って殴り返すわけにはいかなく この悔しさの持って行き場所がなかった。

本当はこの悔しさを勉強の方に向ければよかったのだろうが、
フランスが嫌いでフランス語を勉強しようなどとは考えられなかった。

唯一の助けが大らかなご主人ジョルジュさんの人柄だった。彼は僕をかばってくれた。
今でも感謝している。彼がいなければ耐えられなかった。

ただいやな事はそう言った日本の諸習慣を踏みにじられる事であって、それ以外は面白い事も多かった。 活気のないさみしい場所であったが毎日の食事は素晴らしかった。

マダムが学校の校長だから生徒の父兄が色んなものを持って来てくれる。
朝はお隣さんの搾りたての牛乳を飲むところから始まるがすべてが新鮮だった。
採れたての卵は目玉焼き、オムレツ、マヨネーズと多くの材料になった。
朝新鮮な牛乳に、ココアにパン・ド・コンパーニュ(田舎の丸いパン)をうすく切ってバターを塗って食べる。 又は豚のリエット、パテなどを食べる。
冬は暖炉で肉やパンを焼く。これがうまい。

夜は何が凄いかと言うと 一人1キロほど果物を食べる。
滅多に来ない父がびっくりするほどだった。
大きいテーブルのど真ん中に鍋が置かれそれをすくって食べる。 豪快でもあった。
未だにどのようにして作るのかが分からない料理が沢山ある。
Sanguette de sang de volaille (サンギェット)もその一つである。
鶏を締める時に首を切るがその滴る血をフライパンにすくい細かく刻んだニンニクとパセリを載せオリーブオイルでソテーする。これが旨い!日本では食べたことがない。

マヨネーズだけど 僕は未だに日本で買った事がない。気持ち悪くて食べられない。 冷蔵庫の無い時代に酸化させないため酢を大量に使ったのだろうがいったい何が入っているか分からない。
ただ子供の時から食べているとその味に慣れてしまうのだろう。
逆に僕は未だに手作りのマヨネーズしか食べられない。
日本のスーパーへ行くと色んな卵が並んでいる。
でも美味しいと思った事はないしそれぞれ味がさほど違うと思えない。
スーパーの卵は殆どが冷凍物で、解凍した日が生産日となっている。
やはり生まれたての卵と味は違う。

そして日本のオリーブオイルはエクストラ・ヴァージンと書いているが、エキストラなど殆ど存在していない。 強いて言えばオリーブオイルはエクストラであろうが、
ヴァージンであろうが冷蔵庫に入れておけば固まって劣化が進みにくい。
そして日本のオリーブオイルは非常に味が無いと言うか癖が全くない。
フランスなどでは癖の多い物が多く、バラエティーにとんでいて美味しいものが多い。
先ずは卵の黄身だけを大きめの茶碗のようなものに入れる。
かき混ぜながらオリーブオイル、塩、胡椒それにマスタードを入れる。
このマヨネーズに蟹とか海老を浸けて食べると滅茶苦茶美味しい。

フランスで日本茶を飲むと水が硬質なのでお茶の持つ優しさ、品の良さが感じられない。一方日本でエスプレッソを飲むと水が軟質でシャープさを感じない。
脂っこい物を食べた後ガツンと来るコーヒーが飲みたく自分で淹れるようになってしまう。
これらはあくまでも慣れ、習慣による好みの問題ではあるが。

若者にとって 食べ物は間違いなくフランスの田舎が美味しい。
フランスは豊かな農業国だった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


愚息の独り言「フランスでの生活 第32話 ボルドーでの生活3」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第32話 ボルドーでの生活 3」

2016年4月22 日



何故僕はドアンスに送られて来たか。
それは父がフランスの生活に慣れさせようと思った事もあるが、
特に僕を家族と引き離す事にあった。

そのロベール家の家族構成は、まずご主人がジョルジュ(George)さんというかたで、第2次世界大戦において捕虜収容所に収容され、ボランティアの文通相手マルギョリットさんに勇気づけられた恩に報いる為、終戦とともに彼女を探し回り、やっとの思いで見つけブロポースし、結婚した。 マルギョリットさんはあまりその気は無かったようだが、ジョルジュさんの意志は固く生涯彼女に尽くした。

彼はブルターニュ出身の青年だった。ブルターニュはフランスの北西に位置し、そこの住民ブルトン(ブルターニュ人)は頑固者の象徴のような言われ方を一般にされている。 フランスで彼はブルトンだ!と言うとそれはすなわち頑固者を意味する。

しかしジョルジュ・ロベールさんは決して頑固者では無く、一途な人だった。
捕虜収容所の中にいながらにして アマチュアボクシングのヨーロッパチャンピオンだった。
気さくで優しく とても大らかな人だった。僕も彼には助けられた。
屑鉄屋で経理をやっていたが頑張り屋で、高収入を得ていた。
朝5時には自動車で会社に向かっていた。

奥様のマルギョリットさんは学校の先生で非常に頑固者でわがままだった。
しかも決して美しいとは言い難く 、あまりモテるタイプの人では無かったと思う。

長男のアラン(Alain) は真面目すぎるほど真面目で体育の先生を目指し日夜勉強に励んでいる高校生だった。 当時体育教師の給料は良く、休みも多く宿題の採点も無い。放課後残って何かをやるなどと言う事は一切なく、フランス人にとって憧れの職業だった。
なり手が多く体育大学入試は大変難しく、医学部にでも入るかの如く多くの知識を要し猛勉強していた。 500以上ある身体の筋肉名や骨の名全てを丸暗記しなければならなかった。

長女のフランス(France)は美人で170cmの長身。 スペインが大好きでスペイン語の先生に成る事を夢見ていた。 当時は今と違って教師の暮らしは豊かだった。
フランスでは夏休みを大人でも1ヶ月とるのは当たり前の時代であり、6月半ばからとるものもいれば、9月の半ばからとるものもいた。 家族が一緒にバカンスを取れる様にと学校側は3・4か月の夏期休暇が当たり前。 期末、卒業試験は6月の頭に集中していた。

次男のブルノ(Bruno、後道上道場の指導者となる)は身体が大きく、どちらかと言うと要領の良い男だった。 怠け者で一番簡単な歯医者の道へと進んだが、今では断トツに稼ぎが良く優雅な暮らしをしている。時代の変化とは恐ろしいものだ。

マダムから聞いた話だと、子供の頃のアランとブルノは身体が弱く、マダム・ロベールがボルドー市内の案内を見て子供の健康育成を考えて アラン15歳ブルノ12歳の時に柔道入門させたそうだ。 ストリート・チルドレンがやるサッカーと違って柔道は大変高貴に思われていた。

33kmの道のり、息子が免許を持つまでジョルジュ・ロベールさんが送り迎えした。 そんな中で熱心に練習した二人はめきめき強くなっていった。 当時団体戦においてボルドーの道上道場は圧倒的な強さを誇っていて アランもブルノもジュニア・チームの一員として選ばれ多くの勝利を納めた。
そういった二人なので父道上伯を崇拝していた。
道上に口をきいてもらうだけでも光栄な事であった。

父の意を酌んで 僕の日本語の本は捨てられ日本文化との交流は閉ざされた。
日本語を忘れさせようと言う魂胆だと僕は受け取った。
ここから父に対する憎悪が増していく。
父との戦いが始まった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


愚息の独り言「フランスでの生活 第31話 ボルドーでの生活 2」



愚息の独り言
「フランスでの生活 第31話 ボルドーでの生活 2」

2016年4月15 日



ロベールさん宅は(Robert ) ドアンス(Douence) という人口約100人の村にありました。 広さが縦5キロ以上 横5キロ以上の広大な村でその殆どが農家だった。
自動車でボルドー市からドアンスまで33km。多くの葡萄畑が目に入ってくる。
ただ有名なシャトーは無く大半は自分たちで飲むための物だった。

10月、ハーベストの時期になると、ドアンスでは 今日はだれそれさん家、
明日はだれそれさん家と 言う風に村中100人総出で葡萄狩りを手伝う。
背中に大きなかごを背負って 葡萄の房を背中のかごに入れて行く。
これが結構しんどい。屈んで作業するために子供の僕には結構大変だった。

そのかごに入ってる葡萄の房を歯車の様な( fouloir ) フルワ―に入れ それをまわしながら潰れた物を、大きな樽、又セメントで出来たプールのような所へ投げ込む。
昔は皆さんパンツ一丁になって足で葡萄を潰していたが、この頃はフルワーを使っていた。

( fouloir ) フルワ―

約1週間もすれば葡萄の皮、枝などが完全に浮き上がって来るがそれをさらにかき混ぜると、 2週間後に醗酵していく。その頃に枝、皮、種を取り除く。

赤ワインの色は葡萄の皮、種がつぶれる事によってできる。 昔の作り方のほうが荒っぽいが、身体には良い物だったと思う。 果物の一番の栄養分は皮際と種にあることを昔の人は知っていた。


素人ほど防腐剤が云々言うがボルドー赤ワインは原則防腐剤を使わない。
作業で一番大変なのが葡萄狩りだ。 その夜は村中が集まって採れたての葡萄ジュース、昨年の樽出し葡萄酒を皆で飲む。 村中の食料品:ウサギ、鶏、豚、野菜などを皆が持ち寄って食べる、飲む(ギョルトン)、まるでお祭り騒ぎだ。 このハーベストが3週間ほど続く。子供達も学校へ行く暇はない。

このギョルトンは夜7時ごろから朝の1時まで延々と飲んで食べる。
小学生の女の子も葡萄酒を飲んでいる。僕も飲む。 木のテーブルをくっ付け合わせ 周りには鶏そして牛の首輪の鐘がなる。 豪勢な料理をピクニック気分で味わう。 日本人と違って酔っ払っている人は居ない。皆酒も強く またよく食べる。 肉は少々硬いが味が有って食べごたえが有る。

2chevaux 車陸の孤島の様な所で遊ぶところが無い。 バスが一日1台猛スピードで通るだけでパン屋は毎朝近所の村から 2chevaux 車のバンタイプの車が届けに来る。

他は肉野菜の自動車が週に3回通るだけ。
だからこの葡萄狩りは一大イベントである。

しんどいが、それ以上の喜びが有る。子供も年寄も女も男も皆で手伝い皆で楽しむ。
日本人として人種差別を唯一受けなかったのがこの村だ。

最近イタリア、スペイン、オーストラリア、ニュージーランド、カリフオルニア、チリ、アルゼンチン とどこでもここでも ワインを作っているが フランス人の様に葡萄酒が生活に密着した国はない。
アメリカ人もワインを飲みだしたのは最近であり、フランス人の様に庶民の飲み物ではなかった。
フランスは長年に渡って自給自足の出来る数少ない国の1つだった。

フランスは最近ワインを飲む量が減った。 むかしは1人一日に1本以上だったが現在は4日に1本の量らしい。当然飲まない人達も含めての数である。 その代わりビールとウイスキーの消費が増え、ワインもやたらと格付けがどうのとか 訳の分からない事を言って値段を吊り上げている。

食は地方にあり。真にフランスの食生活は贅沢だった。
国も豊かだが何千年もの食文化が成し得る事である。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





▲ページ上部へ


ページトップへ