スーザン・ボイルと熟成ワインの表現

スーザン・ボイルと熟成ワインの表現

先日、たまたま、あのスーザン・ボイルを、改めて観る(聴く)機会がありました。

一度限りの歌が、大勢の人に与える影響の大きさについて考えさせられました。

特に、偏見と実際のギャップの大きさの衝撃について、よく、描かれている気がします。

一方で、音楽の力はすごいなぁと感じました。芸術となりうる面は、そういう所にあるのかも知れません。

そう、ワインも芸術的な側面を持っています。そう信じています。人々を、魅了する何かが、はっきりと存在します。特に熟成ワインにおいて。

でも、このワインというものは、音楽や、映画や、絵画のように、一度に大勢の人に対して、その魅力をアピールすることは、できないものなんです。

熟成という、時の産物、偶然と必然の賜物、その魅力を享受することができるのは、ほんとうに、一握りの人達だけ。

どんなに、メディアが発達しても、このワインの素晴らしさを、伝えることは難しい。

だからこそ、熟成ワインの素晴らしさが、多くの人々に伝わっていない。

それゆえ、ワインの独特の世界観があるのかもしれませんね。熟成ワインがなぜ高くなるかを、メルマガの「ボジョレーの真実」に書きました。

実際、熟成ワインの存在が、非常に貴重なものなんです。市場に出回った瞬間から、ワインは飲まれるためのもの。

どんどん、減っていきます。買われて、飲まれて。

そう、どんな、グレート・ヴィンテージといえども、市場原理からは逃れられず、少なくなっていくのです

ですから、20年、30年ましてや、それ以上のワインにめぐり合うことがあれば、これ、感謝しなければなりません。

また、そのワインが、飲める状態であれば、本当にラッキーであったと思わなければなりません。

そして、その熟成ワインが、美味しかったならば、幸せに触れたこと、そのことを認識し、多くの人に伝えなければならない気がします。そう、感じています。

先日も、ワインの表現が難しいと言いました。飾られ造られた、言葉よりも、「思いもかけない幸せ」に出会った人の表情こそ、その魅力が表現されているのかも知れません。

あの予選の時のスーザン・ボイルの歌を聴いた審査員を含めた人々の表情、驚きの声に、そんなことを感じました。