私と柔道、そしてフランス…
- 第四十五話 初出社!- 2019年6月6日
(この手記に度々登場してもらった富賀見真典先輩が、4月30日に亡くなられていたことを、最近になって知りました。
先輩は1968年頃からレバノンに住んでおられ、昨年、電話で元気な声を聞いて安心していましたが...。
165センチ・75キロの小さい身体から繰り出すその“大外刈り”は、重量級の選手にとっても驚異でした。
ひたすら“小さな巨人”のご冥福をお祈りします。)
トントン拍子で決まった就職先「日本電子株式会社」の原点は、1946年、千葉県茂原市で始まった、風戸健二氏を中心とした元海軍技術将校らによる電子顕微鏡の試作研究にあります:
*1949年:三鷹市上連雀の日本無線(株)の一角を間借りして、「株式会社日本光学研究所」(英語名:JEOL)が設立されました。
(偶然にも、私が1943年から1947年まで幼年期を過した家が、この日本無線から20㍍のところにあって、毎日その前で遊んでいたことも、不思議な巡り合せです。) 同年には、透過型電子顕微鏡第一号機が完成しています。
*1956年:電子顕微鏡輸出第一号機がフランスのサクレー原子力研究所に向け 出荷されました。
この頃から、電子顕微鏡だけでなく、総合理化学機器メーカーとして業績を急激に伸ばし、私の入社した1967年当時、社員数は約1700人にもなっており、理系新卒者の“リクルート就職希望ランキング”では7位にランクされるなど、普通ではなかなか就職が難しい企業に成長していたようです。
そんなこととは露知らず、初出社の日を迎えました。
藤代専務の指示通り本社人事部に行くと、驚いたことにすぐに社長室に案内されました。
数ヶ月前のパリ支店での言葉、「東京で会おう!」が社交辞令ではなかったのです。
そして、さらにビックリしたのは、風戸社長の口から「安本さんには、来年の3月か4月を目処にフランスに行ってもらいたい!
それまでは、各部門で研修を受けて下さい。
研修スケジュールは私が作ります。」と言われたことです。
しかも、私の目の前ですぐさまスケジュール表を作成!これで三度目のビックリ!
いつかは、ルエイユ・マルメゾンの“JEOL”で働けるかも知れないぐらいの、のほほんとした気持ちでいた一新入社員の私に対して、これ程までの思いやりをもつ測り知れない懐の大きさに、ただただ感嘆していました。
次回は「第四十六話 研修を経てフランスへ」です。
【安 本 總 一】 現在 |