私と柔道、そしてフランス…
-「第三十一話 周辺国への観光旅行(その二)」- 2018年11月22日
映画出演で思いがけない収入を得たので、子供の頃から乗りたかったバイクを買うことにしました。
バイクといっても、免許を必要としない排気量50ccのいわゆる“原動機付自転車”の仲間です。
許容最高速度50㌔/時、高速道路通行不可などの規制条項は多々ありましたが、今よりズッと寒かったパリの極寒期は除き、語学学校への毎日の通学、下宿からメトロ・バスで1時間以上要したINSへの行き来に、2年間便利に利用しました。
おまけに、パリから約300㌔の距離にあるベルギーのブリュージュ(Bruges)にまでこのバイクで行くことになりました。
きっかけは、フランスへの船旅、MM汽船のヴェトナム号で知り合った画家・小島祥敬さんです。
スペイン・ポルトガルの写生旅行を終えて、次はベルギーから北欧に足を伸ばし、パリに戻るという。
それも、パリで買った中古の自転車で。1964年8月、ブリュージュの名に惹かれ、小島さんに同行することにしました。私はバイクで。
私より3、4時間ほど早くパリを出発した小島さんに国境手前で追いつき、一緒にベルギーに入りました。
日本では絶対経験できない、自転車・バイクで隣国に入る感覚を二人でじっくり味わいました。
ブリュージュでは2日間ユースホステルに泊まり、縦横に走る運河、美しい中世の街並を満喫しました。
“街全体が美術館”という表現がピッタリのヨーロッパの一角ではありました。小島さんなどは、「このまま、この街で暮らしたい!」と言いながら、精力的に写生をしていました。
その後、やはり船旅仲間で、西ドイツのケルンで柔道の指導をしていた金井孝四先輩(日大柔道部OB)から、ケルンのカーニヴァルへの誘いを受けました。
いつもの4人に前述の小島さんが加わり、1965年2月、約500㌔をこのときは汽車で往復しました。国境ではどんな手続があるのか興味深かったのですが、切符の検札と変らないパスポート・チェックだけでした。
ケルンはその大聖堂で知られていますが、知る人ぞ知るオーデコロン(Eau de Collogne : ケルンの水)発祥の地でもあります。
ケルンでは、金井先輩夫妻の歓待を受けて、盛大なパレード、夜を徹してのパーティーを、時間を忘れて楽しみました。
厳格、真面目と言われているドイツ人が、その評判はどこへやら、羽目を外して楽しむ微笑ましい様子をあちらこちらで見て、ドイツ人にも親近感を覚えながらパリに戻りました。
その直後に、その年のヴァカンスは、スペイン・ポルトガルに皆で行くことを決めました。
それもまた車で。そのため、大国君の負担を少しでも減らそうと、運転免許を取得することにしました。
直ちにAUTO ECOLE(自動車教習所)に登録し、その日から走行練習が始まりました。
それも練習コースなどありませんので、なんと、第一日目から一般道での走行です。
生れて初めてハンドルを握ったその日から、です。
私の場合は、この教習所がエトワール凱旋門広場の近くにあったため、広場の一角から始まりました。
この広場には12本の通りが出入りしていて、信号が一ケ所もないという、フランスで最も運転の難しい場所です。
基本的な「右側通行、右側優先」の法規を遵守しようとすると、右側から際限なく広場に入ってくる車に押されて、広場の真ん中に持っていかれ、なかなか広場の外に出られません。
それでも、優秀な指導員のおかげで、12、3教程(1教程30分)終わったところで取得試験がありました。
先ず、道路法規。時間を掛けて家で勉強したこの試験は、フランス語の口頭試問で行われ、全問正解。
その場で、合格証明書をもらい、直ちに実地試験に入って順調に課題をクリアしていきましたが、最後の“駐車”で失敗、その日は実施試験は不合格になりました。
それでも、さらに2、3教程取った上で再度挑戦し、成功しました。その当時の写真を貼った免許証が今もって有効で、ときたま運転しています。
スペイン・ポルトガルには1965年7月半ばに出発しました。全行程約5,600㌔の大旅行でした: フランス(パリ → サン・ジャン・ドゥ・リュズ) → スペイン(サンセバスチャン → マドリッド → サンチアゴ・デ・コンポステラ) → ポルトガル( ポルト → リスボン) → スペイン(セヴィリア → マラガ → グラナダ → アリカンテ → バルセロナ) → フランス(ペルピニアン → ボーヴァロン → パリ)
マドリッドでは、学生時代の稽古仲間で、スペインの警察・軍隊の柔道指導者として活躍していた武田益良夫君(東洋大柔道部OB)に再会し、旧交を温めることができました。
彼が指導する警察署の道場で軽く汗を流したことを今、思い出しました。
また、夜はその警察署長に、フラメンコ・レストランで名物“パエラ”をご馳走になったことも。
また、ポルトガルの首都リスボンでは、“ポルトガル柔道の父”と呼ばれていた小林清先生(日大柔道部OB)を訪ね、苦労話をうかがいました。
この旅行中、指導員なしで運転する初の機会を窺っていましたが、なかなか機会に恵まれず、ようやく任せてもらえたのは、南スペインのマラガ付近でした。
数百キロ運転したでしょうか、緊張で疲れきってしまい、楽しいドライブとはいえませんでした。
改めて、大国君の忍耐力に感心しました。
この後、悪化していた膝の手術を8月半ばに控えていたので、私はバルセロナから汽車で帰巴しましたが、大国君達はそのまま南フランス・ボーヴァロンの国際合宿に参加してから、パリに戻りました。
次回は「第三十二話 仏柔連との契約切れも近付き...」です。
【安 本 總 一】 現在 |