私と柔道、そしてフランス…
-「第二十話 悠久の国・エジプトへ」- 2018年6月21日
エジプトのスエズに早朝に着くと、希望者は観光バスでカイロに向かいます。
船がスエズ運河(約167キロ)を通って反対側のポートサイドに到着するまで、一日かけてエジプトの首都・カイロの観光ができるわけです。
気が遠くなるような7000年もの歴史を持つ悠久の国・エジプト...。
スエズ運河は、アジアとヨーロッパを結ぶ海の近道として、1869年に開通しました。
地中海と紅海には海面差が無いため、閘門を必要としない珍しい運河です。その地域性・利便性から、とくにエジプトとイスラエル・イギリス・フランスとの主導権争いが絶えなかった地域でもあります。
1967年の第3次中東戦争(エジプトとイスラエル間の対立戦争)勃発によって運河は閉鎖され、この運河を利用してアジアとヨーロッパを行き来していた船舶は、1975年の封鎖解除までの8年間、アフリカ南端の喜望峰を経由せざるを得ませんでした。
横浜/マルセイユ航路でいえば、スエズ経由よりも確か10日ほど余計にかかったのです。
そのため、船賃も高騰し、当時すでに開通していたシベリア鉄道ルートに客/物流を奪われ、経営難に陥る船会社が続出。MM汽船も1977年にその姿を消しました。
この一事を見ても、いかに重要な運河かがわかります。
それも、フランス人・レセップスが思いつき、エジプトの副王・サイードの協力を得て完成させた世紀の土木工事だったのです。その後のパナマ運河開削も、レセップスの業績だそうです。
観光バスは赤茶けた砂漠の真っ只中をカイロに向かいます。行けども行けども砂漠です。
そのうち、映画好きな高校生の頃に見たフランス映画『眼には眼を、歯には歯を』を思い出しました。
舞台は中東の砂漠の国・シリア。急病の妻の診療を断られ、死に至らしめたフランス人医師に対する現地人の復讐劇です。
医師を砂漠に誘い出し苦しめた末、その男は死にますが、その直前に砂漠の出口の方向を医師に教えます。
医師がその言葉を信じて踏み出した先には、果てしなく続く砂漠が...。
さて、われわれのバスは休憩で砂漠のど真ん中で停車しました。
私は砂漠の感覚を足で確かめようと砂漠に踏み出しましたが、上からは灼熱の太陽、下からは熱せられた砂からの反射熱で、10分も立っていられませんでした。
それでも、その幻想的な美しさ、雄大さにはすっかり心を奪われました。
砂漠の中にとつぜん首都カイロが現われます。まず、古代のロマンが凝縮された考古学博物館見学から始めました。
展示品の多さに度肝を抜かれましたが、案内人も居らず、事前の勉強不足もあり、ただ広い館内をさまようだけでした。
「王族の墓」といわれるピラミッドはエジプトには何百とあり、カイロ近郊のギザの砂漠には三大ピラミッドが並んでいました。
そのそばには大スフィンクスが鎮座しています。
砂漠の入り口で、らくだの背に半強制的(?)に乗せられます。これ以外では、ピラミッドには近づけない雰囲気でした。
入場料を払うと後は自由に見学できます。圧巻は何といっても積み重ねられた石のブロックの大きさです。
上に行くほど小さくなるのですが、下の方の石は1.5メートル四方、数トンもあるとのことで、重機もクレーンもない時代にどうやって積み上げたのかが、永遠の謎だといわれています。
それでも4、5段を文字通りよじ登りましたが、それが限界でした。
そこから砂漠に広がる他のピラミッド、スフィンクスなどの景観は、私がその後の半世紀以上にわたって訪れた数多の国々の中でも、最も美しく神秘的な場所として鮮明に記憶に残っています。
謎に包まれたこの地をいつかもう一度訪れたいものです。
夜遅く、スエズ運河の地中海側の出口、ポートサイドに到着しました。
船はヨーロッパと北アフリカの狭間を進み、最後の寄港地バルセロナに向かいます。
それまで、余りの暑さに、トレーニング目的以外では、甲板にはほとんど出ませんでしたが、地中海に入って最初の朝、甲板に出ると、涼しい微風を感じ、いよいよフランスに近づいていることを悟りました。
それ以来、世界地図を片手に甲板に出て、船の位置確認に没頭しました。また、数週間後に控えているパリでの稽古開始にそなえて、トレーニングにも熱が入りました。
我々にとってはヨーロッパ最初の地、バルセロナに到着したときはすでにかなり寒く、震えあがりました。
街に出て、サクラダ・ファミリア(聖家族教会)(注1)を見学しましたが、あまりの寒さにそそくさと船に戻り、翌朝のマルセイユ到着の準備に念を入れました。
(注1)
サクラダ・ファミリア(聖家族教会):1882年に着工したものの、現在も未だ竣工していないアントニオ・ガウディ設計の教会。
次回は「第二十一話 いよいよマルセイユ!」です。
【安 本 總 一】 現在 |