私と柔道、そしてフランス…
-「第十二話 正式招聘状受領」- 2018年2月28日
そうこうしている内に、日仏学生柔道協会の第一次派遣学士・学生としてフランスに滞在していた先輩方の帰国が始まりました。
その報告書などから、滞在中の深刻な問題点が数々浮き彫りになりました。
それは楽しい留学生活を想像していた私にとって大きな驚きでした。
先輩方はフランスに到着してからいつまで経ってもなかなか定住場所を与えてもらえなかったそうです。
その上、生活費に事欠く人も出る始末。
毎日、柔道指導に明け暮れ、勉強などとてもできない状況にあり、柔道を主とするか、学業を主とするか、自分たちは学生なのか、柔道指導者なのか、という疑問が頭から消えなかったとのことです。
本来、学生柔道の出身者にとって柔道はアマチュア精神に徹したものであって、学業を全うしてこそのスポーツなのに、フランスの受け入れ側は自分たちを単なる職業柔道家としか見ていない。
さらに、地方では、柔道学生・学士を金儲けに利用しようとする多くの柔道屋の存在が目についたとのこと。
畳の代わりのマットを車の屋根にのせ、村々を回って柔道のデモンストレーションをやらされ、股旅暮らしの草役者になったような惨めさを感じた、という報告もありました。
こうした報告書を読んで、不安に襲われる一方、早く実際を見てみたいという気持ちも湧き上がってきました。
1963年6月、当協会のフランス側の会長・ボネモリー氏から、前述3名に関する正式招聘状が届いている旨の通知がありました。
そして、当協会幹事会(議事録添付)でこの招聘状が公表されると共に、 その他の重要決定事項が発表されました。 その内容は:
・大国伸夫、海老根東雄、安本總一をフランス柔道連盟が受け入れる。
・給費月額:700フラン(注1)
・往復交通費は日本側負担
・定住地:パリ、またはグルノーブル。 さしあたり、パリに派遣する。
・フランスの新学期に間に合うよう10月中旬までに出発すること。
・出発準備は各自ですすめること。
・フランス側は、第一次招聘時に比べ、より高度の語学力を要求している。
・日本側はフランス人留学生2名を受け入れる。
これらの派遣・受入れ条件を見ると、第一次派遣の経験から、日本側もフランス側も改善に努力したことは明らかでした。
ただ、「行ってみなきゃ分からないよ!」という声もあり、この日は、“夢実現近し”の喜びよりも、出発までの手続・準備の煩雑さに加え、フランスでの待遇・処遇問題が頭の隅のどこかに残っていて、夢から現実に引き戻された思いでした。
さて、滞在費は保証されるとは言っても、ある程度の資金も用意せねばならず、東京駅のレストラン「ニュートーキョー」で朝6時から昼までアルバイトをしました。午後は数時間、柔道の稽古に費やしました。
その上驚いたことに、協会から、同行する大国・海老根両君に簡単な仏語のにわかレッスンを行う大役を協会から仰せつかったのです。
大国君とは明大柔道部の合宿所で、海老根君とは彼の夜勤アルバイト先の医院で、お互いにかなり真剣に仏語と向き合いました。
自分自身は、神田駿河台のフランス語学校・アテネフランセに通うかたわら、フランス人女性に個人レッスンを受けるといった、とんでもなく忙しい日々を過ごすことになりました。
ところが、人生の不運は何処かに潜んでいるもので、海老根君が不慮の事故で大怪我を負い、フランス留学を断念せざるをえなくなりました。
彼は「その後、ショックで 長い間立ち上がれなかった」としばらくは慨嘆していましたが、のちには「医師としての人生を考えると、かえって良かった。
あの時、フラ ンスに行っていたら、今の医師としての自分はなかっただろう」と淡々と語っています。
彼は現在も著名な循環器の専門医師として、また、国際スポーツ界のドーピング・コントロールのスペシャリストと して活躍しています。
(注1)
700フラン:当時の約5万円(1フラン=72円)。
フランスの一般サラリーマンの平均給与額。
因みに、1963年(昭和38年)の日本の国家公務員の初任給は、17,100円でした。
次回は「第十三話 いよいよ、フランスへの船出」です。
【安 本 總 一】 現在 |