私と柔道、そしてフランス… -「第八話 大学時代(その三)」 -

私と柔道、そしてフランス…
-「第八話 大学時代(その三)」- 2018年1月1日


  私がはじめて正選手に選ばれた1960年は日本にとって激動の年でした。

 日米安保条約の改定に反対する闘争、いわゆる「60年安保闘争」が激化し、日本史上で空前の反政府・反米運動になっていたのです。

  とくに5月20日の衆議院の強行採決後は、全学連を中心に革新政党・労働組合・市民団体などのデモが連日国会周辺で行われていました。

私が在籍していた早稲田大学第一法学部は、この運動の中心的存在でしたので、授業に顔を出しても学生の姿も稀で、自然休講状態が続いていました。 

  一方柔道部は、東京学生柔道優勝大会(5月29日)/全日本学生柔道優勝大会(6月18日)を控えて、猛稽古が頂点に達していました。

そんな中、明らかにそれと分かる全学連の活動学生が、ノンポリ学生(注1)のデモへの駆り立てのため、学内・学外を動き回っていて、何度か声を掛けられました。

そして、こちらの立場を説明しても聞く耳を持たず、ただ“デモ参加は学生の義務”を一方的に繰り返すのみで、ラチがあきませんでした。

  そうこうしているうちに、6月15日、全学連を中心としたデモ隊が国会構内に突入して警官隊と衝突し、東大生の樺美智子さんが死亡するという大騒動に発展してしまいます。

 このときの警備側の中心は、“鬼の4機”、“泣く子も黙る第4機動隊”と呼ばれてデモ隊に恐れられていた「警視庁第4機動隊」でした。

この「4機」には柔剣道の猛者を集めた「武道小隊」が存在するとの噂もあり、「4機出動」の情報を得るとすばやく逃げ去る学生が出るほどだったとのことです。

国会を取り囲むデモ隊
【国会を取り囲むデモ隊】

 翌週、合同稽古のために出かけた警視庁の柔道場で、警視庁チームのポイントゲッターで「4機」の教師(?)を務めていた S さんと雑談しました。

彼は15日の警備の第一線にいて、投石で負傷したとのこと。彼が一番心配していたのは、ふだん合同稽古などで一緒に汗を流す学生達がこのデモに参加し、警備側と対峙することだった、と述懐していました。

  結局、この騒動の責任を取って岸内閣が退陣し、7月19日に池田勇人内閣が成立すると、この騒動はウソのように急激に沈静化されたのです。

9月の新学期からは、静けさを取り戻した学園生活の中で部活動が再開されました。

護国寺の階段
【護国寺の階段】

 基礎体力に自信のなかった私は、この頃から毎朝、自主トレーニングを始めました。ランニングで近くの護国寺に行き、本堂までの階段約50段の駆け上り・駆け下りを何度か繰り返し、よせばいいのに、今は禁止されている“うさぎ跳び”でこの階段をのぼったりしていました。

 その効果は明らかで、卒業時には、太ももはかなりの太さ(70cm以上?)になっていました。

ただ、膝に与えたダメージもかなりで、現在の膝の状態(人工関節)の原因であることは間違いありません。

  また、毎年行われた運動部所属学生の体力測定では、私の肺活量の数値が非常に高いことで、周りを驚かせていました。

水泳自由形で3度のオリンピックで延べ7種目に出場し、4個の銀メダル獲得の快挙を遂げた1年上の山中毅先輩に次ぐ、「8200ml」(注2)」を記録したのです。

 この自分でもビックリの肺機能が、生まれつきだったのか、前述のトレーニングと厳しい稽古、或いは中学時代に柔道のほかに取り組んだ「陸上競技(200m/400m/駅伝)(注3)」の成果なのかは、今もって分かりません。

10年前ぐらい前までは、6000ml 以上を保っていました。

  しかしながら、これだけのことをしても、数々の試合では苦戦の連続でした。

そんな中で、下の写真のような技が決まることもありました。

対戦相手の重みは今も心地よく腰の上に残っています。

袖釣込腰決まる
【袖釣込腰決まる】
巴投げ
【巴投げ】

(注1)
ノンポリ学生: 英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心がない学生。

(注2)
肺活量「8200ml」: その頃の私(20歳/身長174cm)のような男性の肺活量予測値は約4400mlでした。


(注2)
陸上(200m/400m/駅伝):文京区立1中~10中を回る駅伝大会に参加。

200m/400m競争で優勝。 

次回は「第九話 大学時代(その四)」です。

筆者近影

【安 本 總 一】
現在