私と柔道、そしてフランス…
-「第七話 大学時代(その二)」- 2017年12月19日
2年生に進学すると、1年生が入部してきます。その年の新入部員は約40名。うち国体経験者が8名いました。
勢い、静かな競争心が湧いてきます。入部当時はただただ夢中で稽古に全精力を注ぎますが、少々慣れてくると、やはり“強くなりたい!”、“大会で活躍したい!”などという気持ちが高まってきます。
100名を優に超す部員が200畳の道場で汗を流すのですから、ときには芋の子を洗うような稽古風景もありました。
その中から、7~9人の正選手に選ばれなくてはならないので、言ってみれば、畳の上の無言の競合いです。
上も下も著名選手がずらり...!それも、選考試合があるわけでもありません。毎日の稽古が選考試合のようなものです。
当時の4年生には東京の高校出身の名選手がぞろり。
中でも、明治高校出身ながら、講道館での師・大沢慶己師範を慕って早稲田に来た主将・奥村剛先輩は高校時代に4段という超弩級の選手で、まさに「豪放磊落」。
私は何とか先輩の得意技、とくに、独特の「釣り込み腰」を体得しようと、先輩に何べんも教えを請い、懇切に指導してもらいましたが、何せ、技能の差/力の差は致し方なく、物にすることはできませんでした。
さらに、3年生には、1年後の主将で、福岡の修猷館高校(注1) 時代「金鷲旗西日本高校大会」などで大活躍した吉村剛太郎先輩(注2) をはじめ、やはり5~6名の国体経験選手がいました。ちなみに、この先輩方の入学時は入部人数160人以上という驚くべき数でしたが、卒業時には17名に減っていたとのことで、いかに稽古がきつかったかが伺えます。
また、私の同期にも、2~3名の正選手候補が名を連ねるという状態でした。
体重が思うように増えなかった私は大きなハンディ・キャップを抱えていたことは確かで、周りから「お前は、痩せすぎだ!」、「お袋に、もっと肉を食べさせてもらえ!」などと理不尽なことを言われながら、ただ黙々と稽古を続けていました。
真面目な(?)私は、母に「肉をもうチョッと食べさせて...」と直訴したことがあります。
そばで聞いていた姉に「わがまま言うもんじゃありません!」とコッピドク怒られたことを懐かしく思い出します。
それでも、真面目な練習態度が評価されたのか、正選手として「東京学生柔道優勝大会」、「全日本学生柔道優勝大会」などの大会に出場させてもらえることになりました。
伝統を誇る早大柔道部の正選手に選ばれて、当然のことながら稽古にも益々身が入りましたが、前述の大会の外、他大学・警視庁・拘置所・企業柔道部などとの対抗戦が一年中目白押しで、“結果を出さなければ”、“選んでもらった期待に応えなければ”という、その緊張感と責任感が頭から離れないまま、がむしゃらに稽古、稽古に明け暮れる毎日でした。
もともと体力に恵まれていないにも拘らず、かなり強引な柔道をしていたため、この頃から、怪我に悩まされることになります。
膝・足首・足指・腰・脇腹と生傷が絶えませんでした。
現在は“サポーター”や“テーピング”で負傷した部位の固定・保護をしますが、当時は、自宅近くの自転車屋からもらった自転車のタイヤ・チューブを巻きつけ対応していたものです。
(注1)
修猷館高校: 早大柔道部の出身で、大正・昭和の大政治家・宮川一貫/中野正剛、小泉純一郎内閣で自民党幹事長・副総裁を務めた山崎拓を輩出。
(注2)
吉村剛太郎: 後に、参議院議員を3期(1992/07/26~2010/07/25)務める。
次回は「第八話 大学時代(その三)」です。
【安 本 總 一】 現在 |