私と柔道、そしてフランス…
- 「第二話 高校時代(その一)」 - 2017年10月7日
後になって、この頃のことを振り返ると、私をフランスに向かわせようとする得体の知れない”何か”が、この辺りから動き始めたように思えます。
というのも、早稲田大学高等学院(略称:学院)は入学時に、第二外国語として、フランス語・ドイツ語・ロシア語のいづれかを選択することになっていて、私はその当時、将来就職に有利といわれたドイツ語を選ぶことにしていました。
ところが、補欠入学手続きの際、ドイツ語クラスはすでに満席で、フランス語かロシア語を選択するしかない、と告げられ、仕方がなくフランス語を選択したのです。
不本意ながらフランス語を選択せざるを得なかったことが、”何か”の発信ボタンを押したのでしょう。
その第一波が入学早々やってきました。フランス語教師・窪田般彌先生との出会いです。
この先生がそれまで全く関心のなかったフランスに対する興味を湧き起こし、フランス語学習の意欲を与えてくれたのです。
学院は、卒業さえできれば早大に入れる、という高校だけに、進学校にはないカリキュラムと自由闊達な校風を持っており、先生も生徒も非常に個性的でした。
窪田先生は、先生というよりも兄貴という雰囲気の先生で、その授業も文法書などは使わず、最初から、サン・テグジュペリの「星の王子さま」を教科書として使い、必要に応じて黒板を使って懇切丁寧に文法の説明をする、というものでした。
それまで、おざなりに考えていたフランス語に対する考え方が、熱意に溢れ、ユーモアに富んだ授業によって、少しずつ変わりました。
それまでは、“将来は英語の教師にでもなろうかな”などと思っていた私ですが、その頃から、“将来は仏語の教師にでも...”に変っていきました。
昭和31年(1956年)の頃は、高校生にとってその程度の夢しか持てない時代でもあったのです。
しかし、その程度の夢でも、“夢”を与えてくれたのは窪田先生だったと、今でも心から感謝しています。
一方、学院に入学直後から柔道部に入りました。
その当時、学院は柔道場を持っていませんでしたので、近くの大学の武道館道場で大学生に混じっての稽古でした。
1933年落成の武道館は、外観は平凡な現代式でしたが、内部は厳かな雰囲気が漂う196畳の素晴しい大道場でした。
日本柔道の修業を目指す高校一年生の少年にとって、それまで見たことのない素晴しい道場で、それも大学の有名選手を相手に稽古できるという、他の高校の学生が経験できない、恵まれた修業環境であったことは間違いありません。
そして、私の記憶が正しければ、最初の稽古日に、私とフランスを結びつける決定的な出会いが用意されていたのです。
学院出身で当時大学4年生の佐藤経一先輩に紹介されました。
なんと、佐藤先輩は卒業後、招かれてフランスに柔道の指導に行くというのです。
そして、「安本は、学院で第2外国語は何語を選んだのか ?」と尋ねられ、「フランス語です」と答えると、「柔道とフランス語は、しっかりやっておけよ...!」と言われたのです。
先輩から、声を掛けられただけで緊張していた私は、「ハイ」と答えたのみで、その質問の理由について、深く尋ねることもできませんでした。
ただ、佐藤先輩のこの言葉が頭の隅に残り、“ もしかしたら、私も…”という淡い期待みたいなものが、芽生えたのは事実です。
その後まもなく、馬淵主将から告げられたのは、全く頭になかった東京都高校柔道大会(団体戦)への出場でした。
それも、「先鋒」で。 団体戦は、多くの場合5人戦で、最初に戦う選手を「先鋒」と呼びますが、その役目はチームに勢いをつける為の“切り込み隊長役”です。
大変光栄なことでしたが、それだけに、プレッシャーに押しつぶされそうになりながら当日を迎えました。
1・2回戦はなんとか勝ったものの、準決勝の高輪高校戦では、中学では禁止されている絞め技で攻められ、逃げ惑うことになりました。
死に物狂いでもがいているうちに、応援に来ていた父が必死に「頑張れ!」と叫んでいるのが目に入りました。
小説やマンガの場面ではありませんが、途端に100倍の力が出て、窮地から抜け出し、引き分けに持ち込むことができました。
決勝では、残念ながら、チームとしては日大一校に2対1で敗れましたが、個人としては国体選手に一本勝ちして、この大会は負けなしで終えることができました。
その上、直後の予選会で、関東大会(1956年)への出場権まで得ました。
チームとしては2回戦で敗れ、又、個人としても1勝1敗で終わりましたが、1年生としては最高のスタートを切ったのです。
次回は、「第三話 高校時代(その二)」です。
【安 本 總 一】 現在 |