私と柔道、そしてフランス…
- 「第一話 中学時代」 - 2017年7月30日
小学校4年生のとき、私は突然、母親に「柔道をやりたい!」と言いました。
それは私の育った環境にあります。
私は姉二人・妹二人に挟まれた一人息子でしたが、一人息子だからといってとくに大事に育てられたという記憶はありません。
かえって、周りから甘やかされて、一人では何も出来ない子になってはいけないと、母は私に、妹達の世話・洗濯・拭き掃除・アイロン掛けなどを、私に課しておりました。
とても厳しい母でした。
おまけに親しい男友達はいなかったため、遊ぶときはいつも姉妹たちとその女友達....。
遊ぶことと言ったら、“おままごと”とか、“着せ替え人形”ばかり....。
家で飼っていた猫までがメス!
男兄弟が欲しいと思う一方で、“このままでは、とても男らしい男性になれない....”と思い始めたのです。
そして、“柔道をやれば、少しは男らしくなれる”と思い、母親に直訴したのです。
しかし、「まだ小さすぎる」と簡単に却下されてしまいました。
ただ、その後の「中学に入ったら、やっても良いよ」という言葉に飛び上がって喜んだものでした。
そして、文京区立第七中学校に入学し、入学式の翌日、さっそく柔道部に入りました。
数日間の受身の練習の後、当時の柔道部長の松本栄一先生から乱取稽古に引っ張り出されました。
組んで数歩移動したとき、「安本、お前は強くなるぞ!」と言われたのです。
それまで、褒められたことのなかった私は、すっかり有頂天になり、稽古に明け暮れる毎日になりました。
その後も、とくにスランプに陥ると、この言葉を思い出して、自分に活を入れたものです。
と同時に、“褒めることの大切さ”を一時も忘れたことはありません。
後に、山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という名言を耳にし、これが私の「座右の銘」になりました。
2年生になったとき、ツベルクリン反応が陽転し、医者から激しい稽古を禁じられてしまいました。
母などは、私が結核にかかった如く、結核に効くという、その頃なかなか手に入らない上に高価な牡蠣を色々調理して、しばしば食べさせてくれました。
激しい稽古は禁じられたものの、“激しくなければ良いんだろう!”と勝手に解釈して、稽古は続けました。
3年生になると柔道部主将に推され、多くの対外試合(団体戦)に出場することになり、その多くの大会で優勝、あるいは、上位の成績を収めました。
その中で、最も記憶に残る試合は、生まれて初めて団体戦を経験した“本郷杯”です。
多くの強豪校が参加したこの大会で、初参加の七中チームが、なんと決勝戦まで進んでしまったのです。
そして、決勝戦は引き分けで代表戦になりました。
組んず解れつの大接戦の末、私の“内股”で「一本!」。 私は嬉しさの余り、飛び上って喜びました。
しかし、応援に来てくれていた父から後でこっぴどく怒られたのです。
「なんだ、さっきの態度は。 相手の気持ちも考えろ!」というものでした。
全く父の言う通りで、返す言葉もありませんでした。
今でも、父の適切な指導に感謝しています。
そして、柔道を始めた者にとっては嬉しい嬉しい初段を頂き、恩人・松本先生が黒帯を贈って下さいました。
また、卒業式には、<学業とスポーツの両立に努力した>として、200人の卒業生の中でただ一人、当時の東竜太郎都知事から表彰状を授与されました。
さて、一方、中学3年の後半になると、避けて通れない高校受験が待っています。
それまで、受験勉強など考えたこともなかった私も仕方がなく、都立に関してはK校を第一志望に、J校を第二志望とし、私立は「早稲田大学高等学院(略称:学院)」を受験しました。
結果、案の定K校は不合格、J校に回され、学院は第一次を通ったものの、第二次で不合格となりました。
J校は柔道強豪校で、偶然、七中の松本先生の前任者・大坂泰先生(注1)が赴任しておられたので、入学前ではありましたが、当校柔道部の冬季強化練習に参加しておりました。
そこへ、ある日、母が駆けつけてきて、「学院に補欠で合格したよ!」というのです。
大坂先生の手前もあり、「学院には行かないよ....」と母に伝えると、会話を聞いていらした大阪先生が、「学院からはエレベーター式に早大に進めるが、ここにいて柔道を続けていたら、とても早稲田には入れないぞ。
バカなことを言わないで、学院に行け!」とのたまわれました。 こうして学院にお世話になることにしたのです。
(注1)
大坂泰先生:後の文京区柔道会会長
次回は、「第二話 高校時代(その一)」です。
【安 本 總 一】 現在 |