私と柔道、そしてフランス…
- 第六十一話 ロレアルからの連絡... -
1976年1月下旬、予定通り東京に到着してからは、本社にフランス石炭研究所の担当者を招いて行うNMRのデモンステレーションの準備に全力を尽くしました。
結果はライヴァル機を越えられるものではなかったようでした。それでもお客様は「満足した!」と言って離日しました。
私は後に残り、先に帰国した元上司や同僚に会い、退社の意向を伝えましたが、不思議なことに、誰一人として翻意を勧める人はいませんでした。
それほど会社の危機が迫っていたのだと理解しました。
かえって、元上司から再就職先の紹介までしてもらいました。
そんな時に、家内から電話があり、世界最大の化粧品会社“ ロレアル(L'Oréal)”のアジア担当ディレクターから連絡があったことを、伝えられました。第五十六話でご紹介した“ロレアル”です。「ダメ元」と思いながらも出した手紙に、すぐさま反応してくれたのです。
一ヵ月後に日本で設立される、ロレアル(L'Oréal)と(株)小林コーセー(現・(株)コーセー)との合弁会社・(株)ロレコス(LOREKOS)が日本人マーケターを必要としているので、至急当社と連絡を取るようにとのことでした。
数日後、ロレコスのオフィスを訪ね、ジェラール・ヴィリエ専務に会いました。
面接の冒頭に、マーケティングの経験は無いことを伝えても拒否反応はなく、ミーティングは私の履歴書を前に2時間ほど質問に次ぐ質問で終始しました。
そして、「私のアシスタントとして、来て欲しい!」と言われたのです。
ただ、この求人案件はロレアル本社の人事部から東京のヘッドハンティング会社に出されていて、手続き上、同社の面接も受け、さらにロレアル・パリ本社の人事部長との面接を経て、最終判断がなされるとのこと。
そして、ヘッドハンティング会社の社長の推薦状を携えて帰仏し、ロレアル本社のムージュノ人事部部長(注1)の面接を受けました。
その際、私の“求職の手紙”を見て、私と連絡を取るように指示したのは、この人事部長であることが分かりました。
彼の最初の質問は、「どこでロレアルの存在を知ったのか?」でした。
それに対して私は、ロレアルの存在はメディアを通して知っていたが、詳しい情報を与えてくれたのは、ロレアルのライヴァル“資生堂”のヨーロッパ代表からであること、とくに、ロレアルの研究開発体制の素晴しさを教示されたことを話しました。
さらに、その結果、ロレアルの研究所と接触して、ジェオルの大型電子顕微鏡の受注に成功したことに言及すると、とても嬉しそうに「数ヶ月前に、その電子顕微鏡をこの目で見たよ、おめでとう!」と言って、立って握手してくれました。
そして、「On y va (オン ニ ヴァ)!」と言いながら、また握手を求められました。
「さあ、一緒にやりましょう!」と言ってもらったと受け取りました。
数日後、アジア担当ディレクターから“採用通知”が届きました。
現在でも、1976年2月20日付けのこの手紙を大事に保管しています。
また、“求職の手紙”は約100社に出しましたが、それに対する返事の手紙も保管してあり、それを最近数え直してみたら、何と95社からも来ていました。
ロレアルのように、電話で返事をくれたところもありますから、ほぼ100%の反応です。
その誠実さには大変驚かされました。
ほとんどの返事が、“採用計画なし”でしたが、“面接”を申し出てくれたところも7社ほどあり、この7社には、感謝の意と他社に決定した旨の手紙を送りました。
これに対して、「おめでとう!」を折り返し言ってくれるところがほとんどで、またまた、その誠実さにも、改めて驚かされたものです。
(注1)
ムージュノ人事部長 : この面接の半年後に急病で亡くなりました。握手したときの彼の手の暖かさが今でも忘れられません。
次回は、「第六十二話 ロレアルで新しい出発」です。
【安 本 總 一】 現在 |