私と柔道、そしてフランス…
- 第五十八話 風戸健二社長のこと... -
日本電子に入社以来4年ほどの間に、パリ赴任、モンペリエ転任、パリ帰任、ジュイ・アン・ジョザスへの転居と、目まぐるしい動きに翻弄されました。
それもようやく収まり、営業実績も順調に伸び、ジュイ村の素晴しい環境も相俟って、“このままフランスの地に永住?!”などの考えも頭にちらつくようになりました。
その間、風戸健二創業社長に示された好意に、何とかして報いたいという思いも、常に強く持っていました。
第四十五話でご紹介したように、入社前にパリ支店で「東京で会おう!」と声をかけられ、初出社の日には、単なる一新入社員に過ぎない私を社長室に招き入れて激励、さらに、目の前で社長自ら私の研修スケジュールを作成するなど、驚きと感激の連続だったのですから。
社長来仏の折には、趣味の画廊めぐりや買い物にお供することがありました。
そんな時に、海軍時代には、「柔剣道の寒稽古・暑中稽古の際、京都の武道専門学校(武専)の先生から指導を受けた」などの思い出話も聞きました。
「柔道は、余り強くならなかった」そうですが、相撲にはかなり自信を持っていて、「後輩の指導にも当たっていた」と得意げでした。
こんな話を聞くうちに、社長が持つ古武士然とした雰囲気と、私が高校・大学時代に毎晩通った大沢道場の道場主で、警視庁の柔道師範の大沢貫一郎先生のそれとが重なり合うことに気づきました。
たぶん、社長も私が柔道出身であることを知って親身に感じ、前述のような特別扱いがあったのでしょう。
その頃、社長の次男・裕さんは、“F1に最も近い日本人レーシング・ドライヴァー”として活躍していました。
1973年6月、社長の来仏と同時期に、パリ西北約130㌔にあるルーアン・レ・ゼサール(Rouen les-Essarts)のグランプリに裕さんが出走することが分かりました。
私はイギリス滞在中に、カー・レーシングを3度ほど見る機会を得て、そのダイナミックでエキサイティングなスポーツにすっかり魅了されていたこともあり、これ幸いと社長を裕さんのレース観戦にお連れしました。
レース前、婚約者同伴の裕さんは、満面に笑みを浮かべてお父さんと話していました。
笑顔がとても優しい、礼儀正しい、“かっこいい青年”でした。
レースが始まると、社長は声こそ出しませんが、身を乗り出して、食い入るように裕さんの車体を追っていました。
それが、第二話で紹介した高輪高校戦で、絞め技で攻められ、死に物狂いでもがいていたときに、「頑張れ!」と叫んでいた父の姿と重なり、グッと来ました。
この日、裕さんはガードレールに激突して、レースから離脱せざるを得ず、社長の笑顔は拝めませんでした。
息子が無傷で脱出したことを知ったときのホッとした様子が思い出されます。
話は飛びますが、この頃の日本電子は、1971年に起ったニクソン・ショックの影響で、円が1ドル・360円から308円に高騰したことを受け、本社も海外現地法人も一気に業績が悪化し始めました。
さらに、第一次石油ショックで円は不安定な動き見せ、その後、円高の方向に進んでゆきます。
その影響は、製品価格にも直ちに現れ、例えば、SEM/XMAコンバイン機の原価が、最大の競合機・フランス企業カメカのCAMEBAXの売価に相当するなど、大きな影響が現われていました。
本社とのCIF価格交渉の行方を追う毎日になっていきます。
次回は<第五十九話 悪いことばかり続きます>です。
【安 本 總 一】 現在 |