私と柔道、そしてフランス…
「- 第五十六話 ルエイユからジュイ・アン・ジョザスへの転居 -
」
ルエイユ・マルメゾンで過した期間はたった2年ほどでしたが、ここにも忘れがたい想い出が多々あります。
まず、両親をフランスに招待できたことです。
ただ、その当時、最も安いと言われたエジプト航空で、カイロでの乗り継ぎを経て30時間以上かけての大旅行です。
60歳を超えていた二人にとって大変つらいものだったと思いますが、ル・ブールジェ空港で、私に気がついたときの嬉しそうな顔は、今でも忘れられません。
3週間ほどの滞在中、愛車(シトロエン D Special)でスイスや妻の里・ポアチエなどに案内して親孝行もしましたが、孫の世話も頼んだりもしました。
それでも、一度も弱音を吐くことなく、ヨーロッパの日々を楽しんでくれたようです。
そして、「東京に着いたら電話するね」と言って帰路につきましたが、帰宅予定時間をかなり過ぎても何の連絡もありません。両親と同居している妹に電話すると、「空港に迎えに出たが、聞いていた便には乗っていなかった」とのこと。
サー大変!大騒ぎになりました。
しばらくして、妹からの電話で、乗り継ぎ地・カイロのJALの所長から「ご両親はJALがお世話しているので、ご安心を!」との電話があったことを知り、ひとまず安堵したものです。
エジプト航空の乗り継ぎ便には予約されていないという理由で搭乗を許されず、途方にくれていたとき、父の義弟(注1)がJAL広島所長を務めていることをハタと思い出し、カイロ飛行場のJAL事務所にワラをも掴む思いで助けを求めたそうです。
幸運なことに、カイロ事務所長と義弟とが親しい友達同士ということが分かり、ホテルの紹介・予約はもちろん、帰国のためにJAL便の利用まで許可してもらったとのこと。
母などは、「らくだに乗って、ピラミッド見学ができたわよ!」と余裕しゃくしゃくでした。女性は強い!
もうひとつ、驚いたことがありました。
カイロのホテルに落ち着いた父から突然電話がありましたが、ただ、「總チャンか ?」と言った後、全く別の男の声で、「Speak English!(英語で話せ!)」というのです。戸惑っていると、電話は切れてしまい、二度と繋がりませんでした。
これが「盗聴」ならぬ合法の「傍聴」であることを、後になって認識しました。
すべての電話は、官憲によって傍聴されていることを知って、背筋に冷たいものが走りました。
貴重な出会いもありました。
同じレジダンスに住んでいた、資生堂のヨーロッパ責任者・星野史雄さんとの出会いです。
あるとき、彼からフランスの化粧品会社「ロレアル(L'Oréal)」について、数々の詳しい情報を得ました。
そのなかには、「早晩、電子顕微鏡を購入するだろう」との情報も。実は、私はそれまでロレアルを有力なお客様として認識していなかったのです。
化粧品会社の研究は多岐に亘り、最先端を行く研究所を備えている会社も多く、それを支える高度な科学分析機器が必要となります。とくに、皮膚・毛髪の研究にはTEM/SEMが欠かせません。
1年ほどの地道な営業活動の結果、JEM-100CにSEMの機能を付したフル装備の電子顕微鏡を、1フランの値引きもなく、それまでの受注最高額75万フラン(当時、約4千4百万円)で受注しました。この快挙も嬉しい想い出です。
そして、1971年9月9日、長男・健が誕生しました。
安本家としては、私以来の男子誕生でした。現在、映画制作のサウンド・エンジニアとしてフランスで活躍しています。
そのため、ルエイユのアパルトマンが手狭になり、転居を考え始めました。
そんなとき、奥住宏(注2)さんから、自宅前の家が空くという、耳寄りな話がありました。ヴェルサイユ宮殿に近いジュイ・アン・ジョザス(Jouy‐en‐Josas)という村にあり、広い庭付きだという...。
ジェオルから約20キロ、車で約30分。パリ大学理学部オルセー校、原子力庁サクレー研究所も直ぐそば。躊躇なく、転居先はジュイ・アン・ジョザスに決めました。
(注1)
父の義弟:「第十八話 極貧のインドへ」で紹介したJALの叔父。
当時は広島事務所長でした。
(注2)
奥住宏:第二十二話/第五十三話で紹介。
次回は「第五十七話 仏文学者・井上究一郎教授が見たジュイ・アン・ジョザス」です。
【安 本 總 一】 現在 |