愚息の独り言「フランスでの生活 第32話 ボルドーでの生活 3」
何故僕はドアンスに送られて来たか。
それは父がフランスの生活に慣れさせようと思った事もあるが、特に僕を家族と引き離す事にあった。
そのロベール家の家族構成は、まずご主人がジョルジュ(George)さんというかたで、第2次世界大戦において捕虜収容所に収容され、ボランティアの文通相手マルギョリットさんに勇気づけられた恩に報いる為、終戦とともに彼女を探し回り、やっとの思いで見つけブロポースし、結婚した。
マルギョリットさんはあまりその気は無かったようだが、ジョルジュさんの意志は固く生涯彼女に尽くした。
彼はブルターニュ出身の青年だった。ブルターニュはフランスの北西に位置し、そこの住民ブルトン(ブルターニュ人)は頑固者の象徴のような言われ方を一般にされている。
フランスで彼はブルトンだ!と言うとそれはすなわち頑固者を意味する。
しかしジョルジュ・ロベールさんは決して頑固者では無く、一途な人だった。
捕虜収容所の中にいながらにして アマチュアボクシングのヨーロッパチャンピオンだった。
気さくで優しく とても大らかな人だった。僕も彼には助けられた
屑鉄屋で経理をやっていたが頑張り屋で、高収入を得ていた。
朝5時には自動車で会社に向かっていた。
奥様のマルギョリットさんは学校の先生で非常に頑固者でわがままだった。
しかも決して美しいとは言い難く 、あまりモテるタイプの人では無かったと思う。
長男のアラン(Alain) は真面目すぎるほど真面目で体育の先生を目指し日夜勉強に励んでいる高校生だった。
当時体育教師の給料は良く、休みも多く宿題の採点も無い。放課後残って何かをやるなどと言う事は一切なく、フランス人にとって憧れの職業だった。
なり手が多く体育大学入試は大変難しく、医学部にでも入るかの如く多くの知識を要し猛勉強していた。
500以上ある身体の筋肉名や骨の名全てを丸暗記しなければならなかった。
長女のフランス(France)は美人で170cmの長身。
スペインが大好きでスペイン語の先生に成る事を夢見ていた。
当時は今と違って教師の暮らしは豊かだった。
フランスでは夏休みを大人でも1ヶ月とるのは当たり前の時代であり、6月半ばからとるものもいれば、9月の半ばからとるものもいた。
家族が一緒にバカンスを取れる様にと学校側は3・4か月の夏期休暇が当たり前。
期末、卒業試験は6月の頭に集中していた。
次男のブルノ(Bruno、後道上道場の指導者となる)は身体が大きく、どちらかと言うと要領の良い男だった。
怠け者で一番簡単な歯医者の道へと進んだが、今では断トツに稼ぎが良く優雅な暮らしをしている。時代の変化とは恐ろしいものだ。
マダムから聞いた話だと、子供の頃のアランとブルノは身体が弱く、マダム・ロベールがボルドー市内の案内を見て子供の健康育成を考えて アラン15歳ブルノ12歳の時に柔道入門させたそうだ。
ストリート・チルドレンがやるサッカーと違って柔道は大変高貴に思われていた。
33kmの道のり、息子が免許を持つまでジョルジュ・ロベールさんが送り迎えした。
そんな中で熱心に練習した二人はめきめき強くなっていった。
当時団体戦においてボルドーの道上道場は圧倒的な強さを誇っていて アランもブルノもジュニア・チームの一員として選ばれ多くの勝利を納めた。
そういった二人なので父道上伯を崇拝していた。
道上に口をきいてもらうだけでも光栄な事であった。
父の意を酌んで 僕の日本語の本は捨てられ日本文化との交流は閉ざされた。
日本語を忘れさせようと言う魂胆だと僕は受け取った。
ここから父に対する憎悪が増していく。
父との戦いが始まった。