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私と柔道、そしてフランス… - 第四十三話 帰国、そして就職!(その一) -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年5月9日

- 第四十三話 帰国、そして就職!(その一)-

  さて、帰国に当たってはルートの選択をしなければなりません。当初は1963年の来仏時と同じフランスの“MM汽船”で、と考えていましたが、1967年の人気のルートはモスクワ経由に変っていました。

  そこで、ソヴィエト連邦(ソ連)の国営旅行社・インツーリストを訪ねました。ソ連に入国する外国人旅行者はみな、ホテル予約からヴィザまですべて、ここを通すことになっていました。そして、料金(約15万円)や旅行日数(8日間)などを考慮した結果、次のルートを選びました : パリ→モスクワ(列車)、モスクワ一泊、モスクワ→ハバロフスク(飛行機)、ハバロフスク→ナホトカ(列車)、ナホトカ→横浜(汽船)。

  このソヴィエト連邦下の「ユーラシア大陸横断旅行」も前述の来仏時の船旅同様、忘れられない思い出になりました。

黒線:往路、赤線:帰路
【黒線:往路、赤線:帰路】

 インツーリストでもらったアドヴァイスのひとつには耳を疑いました。2泊3日を過すパリからモスクワまでの列車には、食堂車、自動販売機、弁当・飲み物の販売などは一切ないので、パリで充分用意をして乗車するように、というのです。 

  1967年5月中旬のパリ「東駅」。いよいよ出発です。第三十六話でご紹介したマルレーヌ嬢がたくさんの弁当・果物・飲み物を持って見送りに来てくれました。そして、西ドイツに入ってからの最初の停車駅ケルンではプラットフォームで、高校・大学時代、大沢道場で大変お世話になった熊倉圭一先輩(柔道指導のため当時ケルン在住)から沢山のおむすびと魔法瓶に入った味噌汁の差し入れを受けました。お陰でモスクワまでの食事は確保できました。

台車の交換
【台車の交換】

  国境では、厳しいパスポート・チェックはもちろん、いろいろなことを経験しました。ドイツからポーランドに入る国境の駅では、東欧の鉄道線路の幅が広いため、写真のように、車体を上げて台車を交換します。

  また、ソ連に入る国境では、所持金を見せてその額を申告をしなければなりません。後で分かったことですが、ソ連を出国する際に、申告以上の現金を保持している場合は、その差額を没収されるとのことでした。ソ連国内で得た金と判断される訳です。私は大事に残しておいた果物を没収されました。

  パリ・モスクワ間の距離は、約2,900キロで、車窓から目に入ってくる景色は大部分が畑、野原、森林...。気の遠くなるほど広大な野原の真ん中や白樺の林に突然ぽつんと一軒家が現れたりします。「あの家に住んでいるのは何をする人達だろうか?」という疑問が今でもときどき浮かんできます。

  モスクワ一泊はこちらが望んだことではなく、国の方針で外国人にはできるだけ金を使わせる方策として進められ、強制的に最低一泊を義務づけているのです。あてがわれたホテルはただ大きいだけでしたが、何日も風呂に入ってない私にとってはオアシスのようでした。

  入浴後、街に出てみましたが、近くの「赤の広場」を初め、どこへ行っても人の姿が少ない。その代わり、何度か子供達に囲まれました。口々に「チュウインガム」をせがむのです。また、何度も警官らしき人からパスポートの提示を求められました。とても観光気分にはなれず、早々にホテルに引き上げたものです。

モスクワ「赤の広場」
【モスクワ「赤の広場」】

  夜は、久し振りに正式な夕食を、と思って近くのレストランに行きました。ところが、ロシア語以外はまったく通じない店で、メニューもすべてロシア語。近くに座るロシア人らしき男性と同じものを出してもらいました。

  翌日の行程は、モスクワ・ハバロフスク間を約9時間かけて飛行機で。飛行距離は約6,200キロ。お国柄、機内ではキャビアが振舞われました。

  ナホトカまでの汽車を待つあいだ、ハバロフスクの町を散歩しましたが、ここもモスクワ同様人影が少ない街でした。そして、写真を撮ろうとすると、どこからか警官が現れて「撮影禁止」だと言う。常に監視されている感じ。

  ハバロフスク・ナホトカ間(約880キロ)は夜行列車。ナホトカ到着まで、すべての窓はカーテンで覆われていて、外の様子はまったく窺えません。沿線に重要軍事施設が散在しているからとの説明でした。

ナホトカの波止場
【ナホトカの波止場】

  ナホトカに着くとすぐにハバロフスク号(?)に乗船。横浜まで2泊3日の行程。なぜか乗客の数が極端に少ない。これがとても気になりました。日本人は、私とモスクワにバレー留学していた女性との二人だけ。

  出航すると、そこはすでに日本海。有名な日本海の荒波に、船は大揺れ。1963年に横浜・香港間のヴェトナム号で苦しんだ船酔いを思い出していました。しかし、今回は揺れに対して免疫ができたのか、まったくその兆候は出ませんでした。船は津軽海峡を通過して太平洋に入り、3年半前に出航した横浜港大桟橋に戻ってきました。

  次は「第四十四話 帰国、そして就職!(その二)」です。 


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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