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私と柔道、そしてフランス… -「第三十五話 柔道の指導先もみつかり... 」 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2019年1月17日

「第三十五話 柔道の指導先もみつかり... 」

  この頃の英国スポーツ界には、フランスのINS(Institut National des Sports: 国立スポーツ研究所)のような、優秀な青年を全国から集めて徹底的にエリート選手に養成するシステムも施設も存在しませんでした。国際大会などの前には、BUDOKWAI、RENSHUDENなどでの合同稽古を通して、強化・調整を図っていたようです。

ジョージ・ケア
【ジョージ・ケア】
  ジョージ・ケア(後のイギリス柔道連盟会長、現十段)、ブライアン・ジャックス(現十段)、レイ・ロスなどの著名な選手が国内/国際舞台で活躍していました。

  私の学生時代、まだまだ外国人の姿は稀な講道館で、必死に試合のような稽古をする金髪の少年をよく見かけました。この少年がブライアン・ジャックスです。ジョージ・ケアも長らく日本に滞在し、月次(つきなみ)試合(注1)で当たったりしました。さらに、レイ・ロスとは前年下見にロンドンを訪れた時に稽古をしました。おかげで、すでに何年もこの国で柔道を続けてきたかのように、ごくスムースにイギリス柔道界に馴染むことができました。

ブライアン・ジャックス
【ブライアン・ジャックス】
  ブライアン・ジャックスに関しては、後日談があります。1980年頃、仕事でロンドンに出張したときのこと、空港からホテルに向うタクシーの運転席ダッシュボードに、柔道衣姿の金髪青年のかなり大きなサイズの写真が飾ってありました。よく見ると、写真には「Athlete of the Year(年間最優秀アスリート) Brian JACKS(ブライアン・ジャックス)」の表示があります。

  とても懐かしく、思わず運転手に「彼と知り合いか?」と聞いたところ、よく聞いてくれたとばかりに大声で「Of course! He is my son!(もちろん! 彼は私の息子だ!)」と誇らしげに叫ぶのです。 そして、 タクシーを路肩に止めて、 「自分はタクシーの運転手をしながら、15歳のブライアンを、日本柔道を体得させるために日本に送ったんだ!」などと暫くの間ブライアンの話で盛り上がりました。そして、よほど嬉しかったと見え、タクシー料金をどうしても受け取ってもらえなかったことを思い出します。

  ロンドン到着後1ヶ月ほどで、BUDOKWAI、RENSHUDEN に次いで名の通った柔道クラブJUDOKANから「コーチ就任」の話があり、直ちに受けました。これで、不十分ながら生活の基盤ができ、落ち着いて英語の勉強ができる、と嬉しい、嬉しいニュースに小躍りしたものです。

パーシー・セキネ
【パーシー・セキネ】
  JUDOKANの道場主は、パーシー・セキネ(Percy SEKINE)といって、1940/1950年代にイギリス柔道チームの一員としてヨーロッパで大活躍した人です。彼は日本人の父、イギリス人の母を持ち、ロンドンの三井銀行に勤務していた父親がイギリス柔道の父・小泉軍治先生と親しかった関係で、柔道を始め、長じて小泉先生のお嬢さん・HANA さんと結婚し、1954年に JUDOKANを設立して、多くの門人を集めていました。

 週に2、3度、乱取りを通しての指導が中心でしたが、技の説明もしなければならないので、英語の最高の稽古場でもありました。また、私の拙い英語に接し、門人の中には見るに見かねてボランティアで私に英語のレッスンをしてくれる学生もいて、JUDOKANは私のイギリス滞在中の最重要拠点になりました。

  この道場の入り口に受付があり、HANAさんが毎日そこで道場業務を担当していましたが、稽古が終わると、受付があっという間にミニバー、ミニパブになり、 HANA さんもそのまま“ママ”に変身!その日の稽古参加・不参加に関係なくビール、ウイスキーを楽しむ門弟や、評判を聞いて集まる柔道関係者で賑やかでした。私には、稽古が終わるとHANAさんが必ず一杯のビールをご馳走してくれました。その“美味しかったこと!

  イギリスの道場の伝統なのでしょう、訪れた道場には、必ずと言っても良いほどこうした一角があり、“道場パブ”といった感じの素晴しい社交場になっていました。日本・フランスとは大分異なる雰囲気にびっくりしたものです。

(注1)
月次(つきなみ)試合:「講道館」で、毎週木曜日に行われる昇段試合。

  次回は「第三十六話 語学(英語・フランス語)勉強の難しさ」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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