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私と柔道、そしてフランス… -「第二十五話 柔道からJUDOへの兆し」 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2018年8月30日

「第二十五話 柔道からJUDOへの兆し」

  日本人コーチ陣がINS(国立体育研究所)で苦労した1960年代は、いろいろな意味で“柔道”から“JUDO”へ大きく変っていった10年間です。  

ヘーシンク選手
【ヘーシンク選手】

  一般的には、1964年の東京オリンピック柔道競技無差別級で、日本柔道がオランダのアントン・ヘーシンク選手に完敗したことが、“国際化”への道に繋がっていった、と言われています。

  実は、すでに、1961年にパリで開催された第3回世界選手権大会で、同じヘーシンク選手が日本人選手3人(曽根・神永・古賀)を破り、初めて外国人の世界チャンピオンが誕生していたのです。

  同選手はそれまでにヨーロッパ選手権で十数回優勝しているヨーロッパ最強の選手でしたので、ヨーロッパではへーシンクの勝利を予測する向きもあったようです。しかし、世界選手権では、第1回は3位、第2回は9位という成績でしたから、日本での評価はそれほどではなかったのでしょう、この第3回世界選手権で日本代表が彼に完膚なきまでに打ちのめされたという事実は、日本の柔道界に大変な衝撃を与えました。

  ちなみに、このヘーシンク選手を発掘し、長年に亘って徹底的に鍛え抜いて世界チャンピオンに育て上げたのは、当時フランスを中心にヨーロッパ・アフリカなど56ヶ国で最高技術顧問として柔道指導に当たっておられた道上伯先生(1912年~2002年)(注1)です。

  その当時、私はまだ学生で日本にいて、出場された3人の先輩には稽古をつけてもらうこともあり、3人の強さは身をもって知っていましたので、この「日本柔道敗北」のニュースを、信じられない思いで聞きました。

第3回世界選手権大会(パリ)日本選手団
【第3回世界選手権大会(パリ)日本選手団】
(前列左端・古賀、後列左端・神永、後列右端・曽根)

  それ以後、家元日本の発言権は弱まり、ヨーロッパ各国の台頭が強まっていく中で、日本柔道の国際化・スポーツ化に拍車がかかり、体重制・ポイント制などへの移行に繋がっていったのです。

  さらに、各国で柔道の登録人口が急激に増加しました。 とくにフランスでは、すでに1956年第1回世界選手権(東京)でクルティーヌが4位に、1958年第2回世界選手権(東京)ではパリゼが4位になっていましたから、このヘーシンクの優勝を受けて、1961年には約50,000名だったものが、1963年には約70,000名にもなっていました。 また、柔道場の数も、1961年にはパリ地域で約90であったものが、1963年には、200ほどになっていたとの記録もあります。

  こういう状況の中で、INSでは、1964年の東京オリンピックを目指して、緊張感に溢れた熾烈な稽古が毎日繰り広げられていたのです。

  当時のフランスでは、4階級(軽量級・68kg以下、中量級・80kg以下、重量級・80kg超、無差別)の体重制が定着していたために、フランス人選手の間では、稽古でも同程度の体格同士の乱取で、軽量と重量が組むことは、ほとんどありませんでした。私の方から、重量級の選手を指名して稽古することはよくありましたが。

 勢い、毎日同じ選手達との稽古になります。単調な稽古になりがちですが、そんなことにはお構いなく、闘争心むき出しにがむしゃらに掛かってくる選手達には感心させられました。 

  そんなとき、粟津先生・富賀見先輩から聞いたことですが、やはり、1961年の日本柔道の敗北以来、フランス人柔道選手の日本人コーチに対する態度というか、考え方が微妙に変ってきているとのことでした。確かに、われわれをコーチとしてよりも、ライバルとして意識しているようでした。  

 現在も、当時の選手達にしばしば会いますが、この頃の話になると、異口同音に、「INSでの日本人コーチとの熾烈で、緊張感に溢れた稽古は、その後のフランス柔道の盛り上がりに大いに繋がっている」と言ってくれます。あながちお世辞でもないようです。

(注1) 道上伯先生 :    
当メールマガジンの発信元・道上商事(株)の道上雄峰社長の父君。
1953年、フランス柔道連盟の招きで渡仏。以来、フランス・ボルドーに定住し、
1956年に「道上道場」を開設。

道上先生
【道上先生】

 次回は「第二十六話 オーブレ氏のこと」です。


筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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