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私と柔道、そしてフランス… -「第十一話 大学時代(その六)」 -

【安 本 總 一】
早大柔道部OB
フランス在住
私と柔道、そしてフランス…
2018年2月14日

「第十一話 大学時代(その六)」

 「日仏学生柔道連盟」の古い資料をひもときますと、意外な人物がその設立のきっかけを作っていたことがわかります。

 著名な 法学者・政治家ルネ・カピタン氏(René CAPITAN)(注1)氏です。彼は柔道人ではありませんでしたが、かねてから大変興味をもっていたそうで、1953年(昭和28年)に署名・交付された「日仏文化協定」の推進役として、第8代日仏会館館長(1957年~1960年)に就任・来日してからは、その頃フランスで急激に修行者数を増やしていた柔道を通して日仏文化交流を早急に実現したいという思いが強まり、盟友の長谷川秀治氏(東大名誉教授・日仏生物学会会長)(注2)の協力を得て、日本の関係各方面に呼びかけた結果、多くの賛同者を得て1960年(昭和35年)、発足に漕ぎつけたとのことです。

 そのとき用意された設立趣意書を読み返してみると、「日本の学生、または学士の柔道人の渡仏留学を求め、学究のかたわら、柔道指導にあずかりたい。またフランスの柔道学徒を日本に留学させ、柔道修行を兼ねて、専攻する学問を研鑽させたい。そして柔道に結ばれる両国学徒を通じて、日仏の学術文化交流の積極化を図りたい」との記載があり、フランス側の「日本人柔道指導者の確保」と「日本柔道を日本で学ばせたい」との思いが強く感じられる設立趣意書になっています。

 さらに、日本側の役員名簿(一部添付)の顔ぶれを見て大変驚きました。その当時の日本の政財界を代表する人物がずらり! フランス側の代表者は放射線生物学の権威でフランス柔道連盟の初代会長ポール・ボネモリー氏(Paul BONÉT‐ MAURY)という態勢で活動を開始しています。

日仏学生柔道協会役員名簿
【日仏学生柔道協会役員名簿】

  また、運営は全て国庫補助と寄付によって賄われることになっています。

 1961年には、第一次派遣留学生として、日本から学士5名、学生1名をフランスに送り込み、フランスからは学生1名が日本に送られました。

 私は、この第二次派遣留学生になったわけですが、定住地を与えられ、柔道の指導をしながら、落ち着いた環境で勉強する機会を与えられれば良いと単純に考えていましたし、派遣元・受け入れ組織も申し分ないことが判明し、当協会にすべてを任せることに同意致しました。

 私が初めて日仏学生柔道協会の会合に呼ばれたのは1962年暮でした。会合の冒頭、第二次フランス派遣学生有力候補の発表があり、大国伸夫(注3)、海老根東雄(注4)、そして私の3人の名前が挙られました。その日にここまでの発表があるとは全く考えていませんでしたので、狐につままれたような思いで聞いていました。と同時に、長年の夢が実現しつつあると言う実感が身体の底から沸いてきました。

一方、大学最後の期末試験も何とか合格点を獲得して卒業することができました。これは運動部に属さない3人の同学部・同期仲間が、自分達にも勉強になるとして、いつものように泊り込みの勉強会を開いてくれたお陰でした。留年となればすべての計画も延期あるいは断念しなくてはならない事態にもなっていたでしょう。 

 卒業後も柔道部にコーチ役として残り、合宿にも参加して後輩達と文字通り寝食を共にしました。その結果、東京大会では宿敵明大を破って決勝に進み、日大に惜敗しましたが準優勝を飾り、全国大会でも活躍し、決勝リーグに勝ち進みました。自分自身のための修行も、目の前に試合がないことで、柔道を始めて最も気楽で最も自由な稽古が楽しめました。 

卒業後の合宿で後輩達と
【卒業後の合宿で後輩達と】安本・背広姿 / 最後尾左・石井千秋(卒業後ブラジルに渡り帰化。 ミュンヘン・オリンピック(1972年)で銅メダル獲得)
東京学生柔道優勝大会準優勝
【東京学生柔道優勝大会準優勝】 左から3人目・富木師範 / 4人目・大沢慶己師範 / 2人目・安本

(注1)ルネ・カピタン:
-1944年~1945年 パリ解放後のドゴール首班臨時政府の文部大臣
-1968年~1969年 ジョルジュ・ポンピドゥ-政権下の司法大臣

(注2)

長谷川秀治:
-1961年~1967年 群馬大学学長

(注3)
大国伸夫:
明大OB、故人

(注4)
海老根東雄:
東邦大学医学部OB、現・小田原循環器病院名誉院長、
元国際柔道連盟医事委員長、元全日本柔道連盟医科学委員会委員長

次回は「第十二話 正式招聘状受領」 です。

筆者近影

【安 本 總 一】
現在




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