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5月24日配信「古武士(もののふ) 第1話 道上伯」





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道上の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



「古武士(もののふ) 第17話 一時帰国」


「古武士(もののふ) 第17話 一時帰国」

2014年6月13日



(2010年の事)現在も香港の某ホテルにて この独り言を書いている。
二泊二日の滞在だが四月に比べていろいろな情報が飛び込んできた。

倍々ゲームで上がっていた香港の店舗賃料が3年前から上げ止まりを見せた。
中国人観光客の消費、前年度割れが続く。 にわかにバブル崩壊を匂わせて来た。
香港のデモも200万人を超え、友人に早くアパートを売れと言ったのだが、3年前から買い手がつかないとの事だった。

面白い話を聞いた。
中国人が一番嫌っているのは日本人では無く、香港人だそうだ。
海外から入ってくるものは全て香港経由。要所要所で香港、シンガポールに抑えられている。
本土の人間が羨む香港への移民は中々受け入れられない。一日140人の制限があるためだ。

一方香港在住の香港人は中国本土人を一番嫌っているとか。
文化大革命以降、逃げて来た香港人から見ると、生活の為、生きて行くためとは言え平気で嘘をつき、 平気で人を騙して でなければ生きていけなかった本土人、しかも親からそういった教育を受けているので身にしみついている人種には違和感を感じると言うのだ。 50万人だった香港人口も今や一挙に700万人を超えた。

弊社当時道上商事もアジア展開を考える上で中国語が欠かせない。
ここ数週間に中国人の求人応募者数十人と面接を行っている。 その中で話を聞いていると何と中国批判の多い事やら。 我々の想像以上に国内問題を抱えている。

なんとなく昔の中国人と今の中国人の違いが分かって来たようだ。
では戦時中の中国にタイムスリップして見よう!

1945年の事である。 既に機雷が日本国を覆っていて安易に船が横行出来なくなっていた。 制空権も制海権も失われていた。
道上伯の妻小枝は長女三保子をつれ1944年に帰国していた。 その際に道上は小枝に貴重な稀覯本、写真等を持って帰るように頼んだが 小枝は自分の物しか持って帰らなかった。
この事を道上は生涯忘れる事無く残念がっていた。 今あるのはポケットに入って居た写真一枚のみである。 道上が生涯もっとも思い出深い年月の証であった。

道上はまだ単身上海に残っていたが、本間東亜同文書院学長から帰国を命ぜられたのは 昭和20年(1945年)7月の初め。既に帰国の便を確保する事が困難な時期となっていた。 しかし富山での東亜同文書院再建計画があった。

そこで武専の一期先輩の陸軍少佐に、搭乗可能な飛行機があったら便乗させてくれるよう頼み込んだ。 その陸軍少佐から連絡があったのは、7月31日だった。 午後11時に電話があって、翌朝5時に飛行機が離陸するので、午前3時に迎えに来るという。

結局、半袖シャツに短パン、手提げかばんにリュックサック、肩から水筒といういでたちで、 陸軍九七式重爆撃機に乗り込んだ。 飛行機は予定通り八月一日午前五時に上海の大場鎮飛行場を離陸した。伯32歳の夏だった。
この頃はアメリカのP51戦闘機が飛び回っていたので、足の遅い爆撃機は格好の標的だった。 もし主翼でも撃たれたら墜落しかない。 日本の爆撃機にはもう落下傘も積んでいなかったから、そうなったら飛び降りるしかない。

航空距離の問題からまず青島へ。青島では三日足止めされた。
P51が飛び回っていて離陸できなかったのである。 四日目に間隙を縫って飛び立ち、今度は京城(現ソウル)へと向かう。 途中台風に遭って飛行機が損傷を受け、その修理などをして、京城を離陸したのが8月7日午前5時だった。

日本本土はこの日もアメリカ軍の激しい空襲を受けていた。
その空襲地域を避けて迂回しながら、福岡雁ノ単飛行場に着いたのはもうその日の午後になっていた。 上海を発ってから丸々一週間が過ぎていた。

離陸する前に上海の市場を任せていた若い青年に(当時24歳位)、上海に戻って来たら市場の半分は君の物だ。もし戻って来なかったら全て君の物だと言って別れを告げた。
その資産、今の金で数百億かそれ以上である。 

結局道上は生涯上海に戻る事は無かった。彼に気遣ってのことだろうか?
愚息雄峰にもその男の名前を一切口にする事は無かった。


次回は「焼け野原」




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。







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「古武士 (もののふ) 第15話 戦争突入」


「古武士(もののふ) 第15話 戦争突入」

2014年5月30日



日本人は 和食が世界一と思っている。
イタリア人はイタリア料理が世界で一番ポピュラーだと思っている。
ただ世界の常識では格から言って中華料理が一番で、二番がフランス料理だ。 中華料理は200種類以上あると言われている。 160の部族によって構成されているのだから当然かもしれない。 フランス料理は100種類には届かない。

上海人は着道楽と言われているが、実は非常な食道楽でもある。 フランス料理では豚の体重の88%を使うが、中華料理では98%を使うと言われている。

道上伯は、よほど中華料理が好きだったのだろう。
中国を離れた後でも外食は中華料理しか行かなかった。 美味しい中華料理は食後お店の玄関を出る時既にお腹が空き始めている。 しかし労働者が行くお店は4~5時間お腹が空かない。 油が違うんだ。とよく語ってくれた。道上にとって中華料理は良き思い出の宝庫である。 広東料理が特に美味しいんだと聞いた事はあるが、料理自体にはあまりこだわりが無かった様に見えた。 華やかな山海の珍味もさることながら、料理はやはり誰と食べるかだ。

その中国も1943年になると日に日に戦況が悪化してきた。 道上曰く、その昔中国にはロシアの方から馬賊が潜入し、 いまだ混沌が続くため、日本に助けを求め、日本陸軍は乞われて中国に行った。 しかし※五族協和をうたった日本の存在が邪魔と感じた欧米列強が、 その構想を潰しにかかった。

それまでアジア内では多くの交流が今以上にあったと言う。
だとしたら欧米によるアジア統一を妨害する動きはいまだに変わっていない。
道上は生涯、日本はもっとアジアと仲良くしなければいけない、と語っていた。 そういった精神はきっと東亜同文書院時代での上海の影響によるところが大きい。
※日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人(満州族・大和族・漢族・モンゴル族・朝鮮族)

東亜同文書院には開学以来、大旅行と称する伝統があった。
卒業間近の学生を5~6人の小グループに編成して、中国各地を調査旅行させる。 調査の目的は指導教授と相談して決め、帰って来て目的に添った調査報告書を提出する。 これが卒業論文の代わりとなったから、学生は必ずこの大旅行に行かなければならなかった。

四百余州と言われた中国の辺地にまで踏み込むこの調査旅行を、学生たちは非常に楽しみにしていた。 反面中国当局や欧米諸国は、学生を使ってスパイ活動をしている、と警戒を怠らなかった。 それだけに対中戦争が激しくなればなるほど、危険も大きかった。

昭和16年の大旅行は、河北、山西、山東、蒙彊(もうきょう)に各二班、 浙江、安徽(あんき)湖南各一班、江蘇、江西、福健各三班、湖北一班、広東六班で行われた。 しかし、調査旅行中の学生がバスで移動中、中国ゲリラ部隊の発砲により 死亡すると言う痛ましい事故に見舞われた。 またこの年から繰り上げ卒業も実施された。 さらに19年には、江南造船所に勤労動員されていた学生6人が、 米軍機の空襲を受け防空壕の中で死亡した。

寒山寺に旅行してそんな危険な状況の中で道上は何日もかけ寒山寺へ行った。

この時映っている写真が中国滞在中唯一の写真だ。 ポケットに入れたまま帰国。よほどの思いが有ったのだろう。

寒山寺では石碑に刻まれている「楓橋夜泊」を自身で拓本して持ち帰った。
あまり人には見せないが、道上のロマンチストな一面だ。

道上の「市場」は相変わらず拡張の勢いを止まない。
児玉誉士夫が会いたがるのも無理はない。
1945年の初め、武専の一期先輩であった陸軍少佐に呼び出された。 「今日本には水銀が入っていかない。きみはだいぶ中国人を知っているから、ひとつ水銀を集めてくれないか」 「私はそんなことできる人間じゃないんだ」と、断わったが何度も頼まれるので 結局やるだけやってみることにした。

その陸軍少佐は旧陸軍中野学校の出身であった。
スパイ活動には水銀が必要不可欠だったようだ。
確かに色んな集積回路に金は必要だがそうすると水銀が必要不可欠となる。

一度用意すると「もっと、もって来い」。結局三度にわたって調達した。 当時上海で道上の手に入らないものは無かった。 結局当時の金で二百五十万円を道上は手にした。 その金は、7月に二百万円の小切手を切って日本に送った。 送り先は神戸銀行だった。
今の金で10億ぐらいだろうか(後マッカーサーの指令で没収となる)。
上海の市場の権利から比べると大した金額では無いが、世の中何が有るかわからない。

次週は「国破れて山河あり」。 


「楓橋夜泊」 作者:張 継

月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船


寒山寺石碑昭和月落ち烏啼きて霜天に満つ 江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対す 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る

月は西に落ちて闇のなかにカラスの鳴く声が 聞こえ、厳しい霜の気配は天いっぱいに満ちている 運河沿いに繁る楓と点々と灯る川のいさり火の光が、 旅の愁いの浅い眠りにチラチラかすめる。

そのとき姑蘇の町はずれの寒山寺から、 夜半を知らせる鐘の音が、私の乗る船にまで聞こえてきた

道上が命がけで拓本した。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。





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「古武士 (もののふ) 第14話 東亜同文書院での毎日」


「古武士(もののふ) 第14話 東亜同文書院での毎日」

2014年5月23日



東亜同文書院の元生徒たちで構成されている滬友会(こゆうかい)の方達は、
年に一度銀座の中華料理店に集まる。

徐家匯・虹橋路校舎正門 道上伯が帰国した時は必ず皆さん数十人が集まり、道上伯を囲む。

愚息雄峰もお手伝いで参加させて頂くと、耳をダンボにして話を聞き入った。 皆さん「親友を持つなら 中国人」と言っていた。


ある日愚息雄峰は道上伯の生徒の一人であった上田茂さん(1990年代当時古河電工社長) に会いに行った。

その上田さんが言っていた。
━東亜同文書院に入学した夜、先輩たちに夜の上海を案内された。
路地に入ると地べたに座って居る「立ちんぼ」(?)が並んでいた。 スカートの中が見えた。
ノーパンで一目で梅毒と分かった。
どうだ、おまえら注意しないとこうなるんだ、と。 先輩による夜の勉強だった。

徐家匯・海格路臨時校舎正門 とにかく何でも有りの上海。
だからだろうか? 東亜同文書院の生徒は気合が入っている。

上海は当時1940年代、世界最大の都市の一つだった。

しかも戦時色が日に日に濃くなっていく中、租界の中は奇妙な中立が保たれ、 先進国の文化と中国独自の文化がないまぜになって、徒花(あだ花)のような 刹那的享楽と退廃が町をすっぽりと包んでいた。
あらゆる人種がが入り込んだ国際的な魔都と言われた。

道上伯は上海へ赴任した時から女房小枝に言っていた。 教師は4年で辞める、と。 四年以上「先生」を務めると世間が見えなくなってしまう、と。

事実彼はその通りにした。
しかし生徒は相変わらず道上邸に入り浸って居た。 

道上は衆目の見るところ、オシャレで、服装にとても気を使っているように見えた。
「道上先生は、白い麻の背広で、すらっとしていて、いつも颯爽としていました」(徳井)

「柔道家には珍しくオシャレでした。真っ白いシャツに、
ソフトをかぶって、タクシーで出かけていました」(植前)。

「スマートで、学生に対しても決して呼び捨てにせず、さん付けで呼び、
武骨な柔道マンという感じでは無く、紳士でした」(阿久津)。

冬は三つ揃いのスーツで決める。
よく小枝と運転手付きの車でフランス租界のダンスホールに出かけた。

近衞 篤麿この頃、東亜同文書院大学学生主事として来ていた近衛文隆などが遊び仲間だった。 近衛は時の総理大臣近衛文麿の息子で、祖父篤麿が東亜同文書院の創始者である。

近衛と道上はよく、フランス租界や共同租界のナイト・クラブやキャバレーで遊んだ。 その翌朝、道上は道場で汗を流し、近衛はキャンパス内をジョギングして酒気を抜いた。

この頃には道上は近衛から戦況を聞き、日本が負ける事を知っていた。

もう一人、教職員で道上と気が合ったのが、予科教授で国際法と外交史を教えていた重光蔵(おさむ)だった。
重光の兄は、のちに全権委員、外務大臣として参謀総長・梅津美治郎と共に、 戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に署名する事となる重光葵(まもる)である。 1943年の夏休みに彼と一緒に内地に帰り、大分県の湯布院の旅館でのんびりと過ごした。

その時、「このまま内地に定住して、兄貴の秘書になってくれ」と請われた。
「俺を用心棒にするんじゃないか?」 「そうじゃないんだ」 
と重光にあれこれ説得しようとされたが、結局道上は行かなかった。
行っていれば政界に顔を出していたかもしれないと後に道上は振り返る。

同年、南京で試合があり、同文書院の学生を連れて行ったが、道上自身も十人掛けをやった。
長きに渡って、外国で十人掛けをやった日本人柔道家は聞いたことが無い。
その時、チョミンギ外交部長(外務大臣)からも、古くて価値のある太極拳の本を六冊もらった。

こうして多くの尊敬を集めた道上は、上海の主要市場の権利を手にした。
今でいうデパートメント・ストアである。市場は18歳の青年に任せた。
これにより道上は莫大な収入を得ていた。 一方日本人が手に出来ない色んな役職を持った。
粉麦統制会,鉄鋼統制会など複数の統制会の理事も兼ねていた。

他にも石炭統制会、化学工業統制会、ゴム統制会、金融統制会、軽金属統制会、皮革統制会、油脂統制会などにも顔を出していた。
おそらく陳公博 上海市長青の党の党首(中国を2分する青の党赤の党)によるものだと思われるが、 それだけ道上は中国人中枢に入り込み信頼と尊敬を勝ち取っていた。

当時児玉誉士夫が中国に児玉機関というのを作っていた。
何処から嗅ぎ付けて来たか、児玉が秘書を通じて道上に 「児玉が会いたがっている、会ってくれ」と、言ってきた。 「児玉機関などというものとは接触したくない。殺し屋の集団ではないか!」

結局道上は児玉と会わなかった。

後に自由民主党を作ったのは児玉だ、と言う人もいる。


昭和十六年十二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。











【 道上 雄峰 】
小・中・高とフランス・ボルドーで育つ。
日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第12話 上海」


「古武士(もののふ) 第12話 上海」

2014年5月9日



旧上海の街が見えるホテルの部屋から本日2014年5月6日、上海のホテルの部屋でこのメルマガを書いています。

2年に一度のペースで上海に来ていますが、あまり変わり映えしない中国です。 よく皆さんが上海は変わったと言いますが、確かに値段は変わりました。

外観も変わりましたが、実はこの60年中身は全く変わっていない。 2年前に比べると自動車は新しく綺麗になり、台数も増え、中心部から15キロの飛行場へ行くのに1時間もかかる混雑ぶり。 ただ人間は変わっていない。

5日の夜、6日の夜と1980年代後半から1990年代前半まで日本に留学していた中国人青年実業家2人と食事をとる。

新しく塗り替えられた東亜同文書院の玄関5月6日の昼間に交通大学へ行った。 交通大学というと江沢民も卒業した大学だ。

昔この中に東亜同文書院大学があった。 門は新しく塗り替えられていて、東亜同文書院校舎も図書館になっていた。

東亜同文書院とは 異国に建設された日本の学校として、当時世界的に注目されていた。 生徒は日本人、中国人、朝鮮人もいて、孫文も教鞭をとったという。 まさに東洋一の学校であった。 そこに道上伯は予科教授、学部講師そして学生生徒主事として招聘された。

現在の図書館清国は1840年のアヘン戦争・1850年の太平天国の乱以来、軍備が強力な割には内政が腐敗混乱し、 英・仏・独・露の四か国に勝手気ままに侵略されていた。

植民地主義の毒牙に対抗しようとして設立されたのが日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)である。

20世紀を目前とする頃には列強国の中国に対する領土拡大の野心がますます露骨になってゆき、 アメリカもフィリピン、サモアなど南シナ海、南太平洋につぎつぎと海軍基地を建設するに至って、 日本ではアジアの安全に対する危機意識がにわかに高まっていった。

ペリー来航からわずか40年、黒船の脅威は未だに記憶から去らず、 列強に蹂躙される中国の惨状は日本にとっても他人事とは思えなかったのである。

この研究所は日清戦争後に、中国を考える東亜会(おもに政治家、言論人、学者が構成メンバー。

有力メンバーには清朝打倒を目指す孫文らの革命派を支援する活動家も多かった)と、 同文会(時の貴族委員、近衛篤麿を中心に清国の張之洞、劉坤一らが 「情意を疎通し、商工貿易の発達を助成する」ことを目的としてつくられる)の 二つの会が合併し、明治34年(1901年)8月に東亜同文書院が発足することにより引き継がれる。

日本人は努力して事を成就し、しかも黙して語らない。 日本人は公に発表することを望まず、また名声をほしがらない。 ただ人に知れずに、将来のために備え、誰にも本心を知られたがらない。
これが東亜同文書院を貫いている精神であった。 しかも中国人街にあって、そこだけが周りとは無縁の自由な学園を頑なに守っていた。  

昭和15年(1940年)に赴任した道上は忙しかった。 柔道は学部、予科ともに正課で、一学年170~180人。柔道教師は道上一人しかいなかった。 このため月曜日から金曜日までは午前2時間、午後3時間、授業にかかりきりになる。 放課後は2~3時間柔道部の指導にあたる。
こちらは土日も関係なく毎日のことで特別な時にしか休みは無い。

道上の住居は一戸建てでキャンバス内に在った。 今流に言うと3LDKで畳が二間、他はフローリングという間取りだった。 そんな校内を雄峰はどのあたりが住居だったのかと今日も歩いてみた。
しかし今は新しいビルが立ち並び、正確な場所さえも分からない。

当時上海だけで中国経済の83%を担っていた。 フランス人シェフが上海に来るとフランス国の約3倍の給料を貰っていたという。 当時の2国間の物価を考えると何十倍に匹敵する。
上海は世界一の街。上海バンスキング、夜の街、ジャズ、キャバレー、何でもござれ!
フランス租界で道上伯はワインを嗜んだ。

そんな素晴らしい街での生活を来週お届けします。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。


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「古武士(もののふ) 第1話 道上 伯」



「古武士(もののふ) 第1話 道上 伯」

2014年2月21日



10数年前5000年以上前の縄文人の骨がワシントンで発見された。
日本の文化は中国から来たという嘘の説がいよいよ暴かれ始めた。
その件に関しては後日述べるとして―。

文化が西から東へ伝わった例は少なく、殆どが東から西に流れて行った説が正しい様だ。
逆に民族は西から東に移動しているようだ。
縄文人の造船技術は大変優れていて、めったに船は沈まなかった。
そのため数千年前から頻繁に太平洋を往来していたそうだ。

蒙古軍が日本を攻める際に神風が吹き船が沈没したと言うマッカーサーの嘘もはがれて来てる。 蒙古軍は船の知識が薄く、船底も平らで大洋等横断できる代物では無かった。 ましてや九州は何キロに渡って1メートルの壁を造り日本のサムライが弓で待ち伏せしていた。

時代は違うが愛媛の八幡浜は、元村上水軍の末裔という説がある。
「おんど」という今のトロール船の数倍の大きさの帆船があった。この造船技術の高さと水軍術はひょっとしたら縄文時代から受け継いでいたのかもしれない。

明治時代のある日、この漁村青年たちが、この「おんど」を操って密航を企てた。

黒潮と言うのは幅100キロに渡り太平洋日本海と北上して行く。 福島原発事故の際、アメリカが慌てたのは良く解る。何故なら海流によって風もワシントン州の方に流れていくからだ。

アメリカの海岸に到着後、船が見つかると密航がばれるとの事で海岸で船を燃やした。逆にその大きな火の手を見つけ土地のアメリカ人が大騒ぎ。結局全員捕まってしまったが、その中の一人、西井久八は唯一知っていた米語”イエス”を連発したため入国が許された。

貧しかった当時の愛媛県人は西井の親戚、そのまた友人の親戚と、どんどんアメリカに渡った。西海岸は西井の所有するところが多くなり、シアトルなどは数千人の人口に膨れ上がって西井が作った町とまで言われた。

歴史学に造詣が深かった、道上伯は日本の政治家がしっかりしていたらアメリカ西海岸は日本のものだったと言っていた。言われた時は「このおっさん何を言っているのか」と思ったが今にしてみると間違っていない。

2000万人のインディアンを虐殺し、アフリカの奴隷、終身刑の囚人を引き連れヨーロッパ人達によって開拓されたアメリカ。そんな歴史を持つアメリカ開拓者は西へ西へと「幌馬車」でやって来て、西井達が持っていた土地は見事に強奪されてゆく。最後のとどめは第2次世界大戦中、日系人(道上伯の兄亀義も)は皆捕虜となり、土地を含めすべての所有物が没収された。

道上家歴代の墓を背に海を臨むと、三方山に囲まれた入江、八幡浜湾が一望のもとに見渡せる。海からはすぐ山になり、そこに道上家の墓がある。ここからの絶景を眺めていると、いつかここから抜け出し大陸に渡りたいと思うのも当然である。大陸には夢があった。




その八幡浜で道上伯は大正元年(1912年)誕生する。

道上伯の父 安太郎道上伯の曽祖父は付近の山の殆どを所有し その地方最大の網元だった。祖父が上女中と(上女中は座敷に上がるが、下女中は座敷に上がれなく土間で料理を、風呂を沸かし、庭掃除をする)恋仲になり結婚。その為祖父の弟が跡を継ぐこととなった。

伯の祖父は一生食べていけるだけのお金は貰ったが、その息子安太郎(伯の父)はそれに甘んじることが出来ず、日露戦争に従軍後、郷里の先輩を頼って単身アメリカへ渡った(1904-1905)。

アメリカに15年間、シアトルやカリフォルニアで大規模農場労働者として身を粉にして働いたそうだ。5年おきにお札よりも交換レートの高い金貨を腹に巻いて持って帰り、宮造りの家を建て、山々を買い戻して行ったそうだ。

道上伯の父 安太郎5年おきに帰って来た為、長男・亀義、次男・伯、三男・伊勢春、四男武幸とそれぞれ5歳違いの子供が生まれた。

アメリカでの暮らしは大変だったようだ。
だが網元のDNAにより安太郎は 骨格が大きく、体力も相当なものだった。

西海岸でも当時アマチュア相撲大会が行われ、連戦連勝の横綱だったそうだ。当然 賭けの対象でもあったため、八百長をしないと殺すとの脅しも有ったそうだが屈しなかった。大好きなビール、ワインなどを我慢してお金を貯めたそうだ。

僕が知っている限り 真面目で辛抱強く温かい爺さんだった。

そんなある日、伯は長兄亀義と海に突き出ている魚の干場で遊んでいて海中に転落した。必死でもがく伯を見つけた兄は泳げないにも拘らず海中に飛び込み、「伯が死ぬる!伯が死ぬる!」と叫びながら片方の手で伯の手を取り、もう一方で船を係留する舫い綱にしがみついて絶対に離さなかった。

長い間しがみついていて、近所の漁師が助け出そうと泳ぎ付いた時にも兄は中々その手を放そうとはしなかった。伯2歳、兄亀義7歳の時の出来事だった。 

アメリカに居た父安太郎はタコマ(ワシントン州)の日系新聞でこの事を知り、滅多に泣かない大男が涙にむせんだ。

伯は、その前にはふとしたはずみで、庭先から3メートル下の道路に転落し、助骨を折る重傷を負った。さらに肺炎を併発して手術をする羽目になり、海に落ちたのは退院して間もなくの事だった。

そんなことが続いたためか道上伯の幼児期はしょっちゅう風邪をひく病弱な子供になってしまった。


来週は道上伯の小学生時代です。



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