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幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

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愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第6話 さようなら香港、初めての外国。」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第6話 さようなら香港、初めての外国。」

2013年9月27日



香港では何人かの日本人が降りたようだが、降りた人数は少なく、
乗ってくる中国人の数の方が多かった。その香港出航後、異様な光景を目にした。

全身黒ずくめの女性が付き添いと思われる女性の人と一緒に2等のデッキから香港を眺めていた。まるで過去と別れを告げるかのように。
背丈は150cmくらいだろうか。少しスリットの入ったロングスカートから足下が見える。ヒールのある靴を履いているがその足は纏足(てんそく)だった。
その女性は誰も寄せ付けない雰囲気を放っていた。その後二度と姿を見せなかったが、その不気味さはいつまでも記憶に残る光景だった。
(※纏足=てんそく。女性の足を緊縛して成長を止め、小足にする施術。 )

僕の乗った船には無かったが、当時は一般の船には4等船室もあった。
当時フランスまで飛行機で行くと運賃は約24万円だった。船の場合は3等船室が13万5千円、2等船室が22万から30万円、1等船室は50万円以上だった。僕の住んでいた愛媛県の八幡浜では50万円あれば立派な家が買えた。大卒の初任給が1万2千円位の時代だった。今から考えると飛行機代はどんどん安くなり逆に船賃はどんどん高くなっていった。

だから食事の出ない4等とか貨物船旅行というのもあった。
基本的には貨物船の場合6~7万円だったが、船数が少なく中には船内で働きながらなら無料で乗せてくれる場合もあった。しかしこれは密航に近かった。簡単にビザがおりない時代なのでパスポートさえなかなか手に出来なかった。そんな状況で貨物船で働きながら行くという事は手続き無しで行くのに近かった。

このラオス号はフランスの船だから1等、2等、3等の区別はいやらしいくらいはっきりとしていた。ただ、たまに全客のパーテイーとか催し物があった。まずは仮装行列があり、我々仲間は「貫一お宮」をやりました。お宮が途中転げて鬘が取れるという演出を入れたが意味の分からない外国人には受けが悪かった。

ひときわ目立っていたのが船長!白い制服で格好が良いと皆は言う。ガキの僕には何が格好良いのか分からない。ただでっかくてすらっとしているだけだ。姉にダンスを申し込んできた。だが僕が阻んだ。外人に姉を取られてはならない!
僕は非常にやきもち焼きだった。足が長い?バランスが悪い!彫が深い?フランケンシュタインも彫が深い!

一夜明けて昼食後、プールの上に直径40cm位の丸太を置き、丸太に跨った二人が向かい合って枕で相手をプールへ落とすというゲームをやった。1等も2等も3等も全員参加のゲームだ。
最初はフランス人の子供達がやっていた。その勝敗が決まった時、僕にやらないかとフランス人の船員が勧めた。最初断ったが例のフランス語の先生中島さんが、雄峰君やったら、と言うのでやることになった。

相手はフランス人の2~3才歳上の男の子だった。

相手が僕の頭に枕で一撃を食らわした。あたまに来たので思い切り相手の肩を狙って横殴りをしたが空振りをして落ちそうになった。慌ててしっかり丸太にしがみつく。あせった。先ほどの戦いで落ちた坊やの水しぶきで丸太が濡れているので滑りやすい。相手は僕のしがみついているその腕や頭に枕を打ちつけた。何度も何度も。何十人ものフランス人の声援が早くあのガキを落とせと言っているように聞こえる。凄い掛け声だった。日本人の掛け声は聞こえなかった。

僕は無我夢中で丸太にしがみついていた。ある程度時間が経ったので結局引き分けということになった。 僕は恥ずかしいやら格好悪いやら・・・!どうして良いか分からなかった。最悪の一日だった。

僕達の戦いに気を良くしたのか次に大人のフランス人男性二人が跨った。
二人とも最初から枕などそっちのけで丸太にしがみついたまま相手をくすぐる作戦に出た。フランス語でギーリ、ギーリ!(日本語だと「こちょこちょ」という感じ)などと言っていて相手に迫る。これが受けた。おおいに受けた。皆で爆笑!

僕は必死でやったのに結局あんな漫才もどきの前座だったのかと結構ムッとしていたところに、中島さんが来て「雄峰君は諦めなかった。負けるかと思ったがさすが日本人!大和魂を見た!」などと言っていた。もし本当にそう思っていたのならもっと大声で応援してくれても良かったのに。僕は一人でフランス人達と戦っていたように感じていたのに!これが日本人的遠慮なのか、それとも3等の遠慮なのか・・・?
とはいうもののそれ以来僕は更に人気者になった。

船はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に向かっている。
海からサイゴン川に入った頃、一艘の小船がラオス号に横づけされた。その小船から降りて来たベトナム人とラオス号船長が交代した。きっと現地の人でないとわからない浅瀬などがあるのだろう。それともべトコンでも飛び出してくるのだろうか?

そう、実は当時ベトナム戦争の真っ最中だった!
40kgの装備を持って戦うアメリカ兵と小袋一杯のお米を持って戦うべトコン。
さてどちらが強いのでしょう?歴史上、南北の戦争で南が勝った事は一度も無い。
冬将軍ならぬ北将軍だ!中国・ロシア対アメリカの代理戦争?

そんな怖いところへ向かって我々の船は進む。
地図ではサイゴンは海沿いだと思っていたが、川は曲がりくねっていてなかなか港に到着しない。到着まで半日以上1日近く、相当長くかかった事を覚えている。


PS:
今このメルマガを飛行機の中で読んでいる。 
ボルドーからパリ、パリから羽田に向かう。10月1日の朝6時には羽田だ。
蕎麦か鮨が食いたい。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第5話 香港は変わった」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第5話 香港は変わった」

2013年9月20日



翌日家族3人で街を歩いているとやたらとチェンジ・チェンジと声をかけられる。若い、といっても30代前半くらいの男がしつこく話しかけてくる。為替の闇取引だ。
ドルをフランス・フランに替え、それをまたドイツ・マルクに替えると元の金額の3倍位のお金になった。意味が分からない。

戦後、ドルを買う時は70数円、ドルを売る時は50数円という変な為替レートだった。ある日アメリカの財務省の人間から日本の財務省に「円とはどういう意味だ?」と聞かれ、「円とは丸のことだ」と答えると、丸は360度だから1ドル360円の固定相場でいこう、ということになったんだそうだ。いい加減なもんだ!

その後今のような変動相場制になったのは、たしか1971年だった。今では1ドル160円以下。当時1フランが75円だったのが今では25円。数十年前1ドルは100円以下、円はデノミをせざるを得ない。そうすると中国、アメリカ経済は崩壊すると思う。そして日本の時代が来る。そう日本が輸出で稼いだ金の殆どがアメリカの国債に変わっていった。

そんな事はさておき、香港の街を歩いていると必ず「マネー・チェンジ!マネー・チェンジ!」といかがわしそうな人達が寄って来る。紺のズボンに明るい柄の半そでのシャツ。連れて行かれる所は決まって袋小路。そのどん詰まりにある家から更に人相の悪いのが階段を降りて来る。僕は心臓がドキドキする。
男はこっちの札を見せろと言う。お札を渡すとその札をくしゃくしゃにしてまた伸ばす。決してすかしたりしてみなかった。

こんなやりとりをする母を見ながら「よくこんな怖い事をするものだな?」と感心した。そういえば日本にいたとき走っている泥棒を追いかけて捕まえた事のある母親だった。若い頃陸上600メートルで日本チャンピオンだったそうだ。
よほど自信が有るのだろう。小学生の時よく、ほうきを持って追っかけられたが怖かった!
実は薙刀(なぎなた)二段だ!

その後は観光用ケーブルカーに乗って丘の上へ行った。きっとあの有名な映画”慕情”の舞台だったのではないかと今では思う場所である。
その丘を下って行くとタイガー・バーム公園がある。気持ちの悪い、悪趣味な動物や昔の人物をかたどった陶器人形のオン・パレードだ。文化大革命の時通貨の代わりに、中国人はタイガーバームを本土から持ち出して香港で換金したそうだ。

そのタイガーバームの「ホー」一族は今ではシンガポールに移り住んでいる。
タイガー・バーム公園はシンガポールにも有る。そのホーの長男と結婚したのがあき子さんという日本人女性だ。ついこの前亡くなったが姪の結婚式にも来てくれた。
彼女はホーの長男と船旅で知り合い結婚したそうだ。船上では色んなドラマが生まれていた。

33日間の船旅だが実際船が動いているのは20日間だ。あとの13日は各港で停泊し、その間乗客は観光をする。そのなかでも香港は1日半と停泊期間が長い。そのいかがわしくも不思議な魅力の香港ともそろそろおさらばだ。出航のドラが鳴り響く。

何処で何を食べても美味しかった。
シンガポールのようになった今の香港には何の魅力も感じない。





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幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第4話 中華料理」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第4話 中華料理」

2013年9月13日



バス停で待つこと30分位経ったころであろうか。

バットマンのバットカー、まるで羽が付いたような自動車(クライスラー)が3台バス停の前に横付けされた。降りて来たのは3等室にいた人気者の中国人のおばさんだった。凄く感じの良いひとで日本人が大好きのようだった。

「日本人なら誰でも良かった、日本人最高!」
??変なおばさん、だと思っていた。
すぐに多くの町の子が車を取り囲みべたべた車を触っていた。
その凄い車に乗り込み 中華料理を食べに行った。
出てくる料理はどれもこれも凄く美味しい!しかも食べた事の無い料理ばかりだった。

3等室のおばさんの親友あるいは姉妹だろうか?
もう一人の中国人のおばさんが札束を200~300枚二つ折りにしてわしづかみして持っている。
お金持ちだ!!! 自動車もそのおばさんの持ち物のようだった。

僕の姉はその時の事が忘れられないようで,いまでもハンドバックに何○○万も現金で持ち歩く。 カードで払っていたらポイントだけで世界を何周も出来るだろう。
しかもファースト・クラスで。

何故見ず知らずの僕達に良くしてくれるのか。その理由を母から聞いた。

そのおばさんは第2次世界大戦中インドシナで敵味方隔てる事無く傷病者を看病したそうだ。戦争が終わって世話になった旧日本兵が皆でお金を出し合って彼女を日本へ招待した。そのことにいたく感激して船で仲良くなった日本人達を片っ端から招待しているということだ。
まるでハネムーン・旅行のように!
彼女は世界平和と結婚したようだった。

後年、3等室のおばさんを探した。 しかし名前すら分からないひとだ。
手立てがなかった。 もう一度会ってお礼が言いたかった・・・!

戦時中は相当な思いで看病されたのだと思う。想像を絶する!
看病しながら亡くなった方も多いと聞いた。英雄は皆死んだ!
逃げ回った奴が勲章を貰っている。
特攻隊の生き残り?嘘をつけ!
特攻隊に生き残りはいない。
生き残ったのは事務をやっていた類の者だと言う人もいる。

まあ、そんな事はどうでも良い。
名前を残そうなどと思った人ではなく、真に、心から、人の為そして世の為に戦ってきた人達がいる。決して安っぽい考えの下で生きているわけではない。
自己宣伝はしない人達だ。
そのおばさんは決して美人ではないが輝いていた。

人から施し物を受けてはいけないと言われて育った自分は最初緊張と遠慮でお箸が動かない。使い慣れない象牙の黄色い長い箸から食べ物がするりと抜ける。
何故割り箸が無いのか!
いつも出前の長崎ちゃんぽんと一緒に付いて来る割り箸!

葛藤してるところへ輝いてるおばさんが来て笑いながら箸の使い方を教えてくれた。 僕が2024年現在までに食べた中華料理で一番美味しかった。
美味しく感じるには理屈が必要なのだろうか?
あの感動は今も忘れる事が出来ない。胃袋よりも魂に!




【 道上 雄峰 】
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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第3話 香港」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第3話 香港」

2013年9月6日



島の連なる夜の灯りを後に太平洋に出た。
その日は船の揺れが強かったせいか、食堂に行っても誰も居ない。
デザートのりんごをボーイさんが余分にくれた。

飛行機の場合、後部に行くほど揺れが強くなり、前部は揺れが少ない。
しかし船の場合は一番揺れるのが前部でそこが3等室、
その次に揺れる後部が2等室、1等室は一番揺れない中部にある。

揺れが薄らいだ頃、8メートルはあろうと思えるサメが
船の後ろにぴったりついてきた。
2日間のあいだずっと船から離れなかった。
船の後部から捨てられる残飯が目当てでそれを丸呑みしていた様だ。

海ではいろいろな事が起こる。
黒潮は深く文字通り真っ黒でこんな海に落っこちたらひとたまりもない。

3等室にいた大学生の中島さんがフランス語を教えてくれる
というので毎日午後3時からレッスン。
でも、ちんぷんかんぷん!!
「アべセデ?」英語もわからないのにフランス語がわかってたまるか!

もうすぐ香港だ。初めての外国!

母から「香港は怖いところだから気をつけなさい。
街に行ったら決してそばを離れないように!」と言われていた。
船室の窓も気をつけないと。
釣竿を使って中の物を盗む輩がいるらしい。

いくつかの島を通り抜け、霧で前が見えない状態から突然香港が現れる!
世界3大美港の一つ。
海から見えるのは美しく調和の取れた白い建物。
だが一歩裏に入ると闇ドル、人身売買、麻薬密売・・・・。 
当時香港は世界でもっとも胡散臭い街の一つであった。

文化大革命で上海から逃げて来たテーラー達が、
コック達が、世界のセレブを待ち構えていた。
フランク・シナトラにサミー・デイビス・ジュニア。

来日公演の前に彼等は香港でシルクのステージ衣装40着ほどを
2、3日で作ってしまう。
勿論普通のスーツは一日で安価に作ってしまう。
何処で何を食べても食事が美味しい。それが香港だった。

船がタグボートに先導され桟橋に着いたとたん、
まるでカリブの海賊のように中国人が船に網をかけよじ登ってくる。
でっかい袋を開いて、さあこれから露天商のお披露目。
香港のお土産品が甲板にざっと並ぶ。
そんな魅力的な光景を尻目に船を降りた。

1等室と2等室の客には観光バスが付くのだが
僕たち家族は知り合った3等室の人たち6人と一緒に税関をくぐって街まで行く。
そして我々9人はバス停で、ある迎えを待っていた。

何も知らされていない僕はバスが到着するといち早く飛び乗り
「お母ちゃん!お母ちゃん!席とったよ!!早く来て!」
体を横にして9人分の席をとり皆を待っていた。しかし誰も乗ってこない。

そのうちバスのドアは閉まり発車!
グレイの半パンツ・スーツにベレー帽の小学生は叫んだ。
「降ります!降ります!」
誰も日本語が分からない。ここは香港だ。

バスは左に曲がり1キロぐらい行った処で右に曲がり
既にバス停を2つ通りすぎてしまった。 誰も降りない。
そのうち車掌さんが切符を切りに来たが言葉が通じない。
たとえ通じてもお金を持っていない。乗車している他の客に笑われる。

そのうちお婆さんが柱にあるボタンを押すと音が鳴った。降りる合図だった。
愛媛の田舎者にボタン付きのバスは初めての出来事だった。香港は進んでる!
愛媛では降りますの掛け声ですんだ。

お婆さんが降りる隙を見計らって、彼女の腕の脇をすり抜けるように降りた。
走った!走った!生きるか死ぬか必死の思いで走った!
忘れないように必死で記憶した道をひたすら走った。

やっとの思いで皆に合流したが、なんと僕が消えていた事に誰も気づいていない。
母や姉さえも「香港は危険な所で人攫(さら)いが多く、失踪する人が多い」
などとあれだけ散々言っておきながら、
ふたりとも僕がいなくなっていた事にまったく気がついていなかった!


次回は香港の町




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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第2話 日本よさようなら」


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「幼年時代の旅行 第2話 日本よさようなら」

2013年8月30日



さあ出航! 

船内で母と姉は同じ部屋、僕は一人で二人部屋を独占だ。
船室の窓は卵形の丸い窓。
さすがフランス船、外観も内装も真っ白でなんとも品が良い。

しかし真夏の船内はかなり蒸し暑い。
ベットで寝たことのない僕は当然二段ベットの上段を選んで寝る。
船が少し揺れた。

翌朝目が覚めるとさっそく母と姉のいる隣部屋をノックして
「母ちゃん!」 ドアを開けてくれた姉が僕を見るなりもの凄い悲鳴をあげた。
言われるまますぐに鏡を見るとなんと顔中血だらけ!

二段ベットの上段を顔から落っこち鼻血まみれになっていたようだ。
結構な高さだったはずだが落っこちてもまるで気が付かなかった。
よほど緊張していて疲れたのだろう。
ぐっすり眠っていて痛さすら覚えていない。

洋式生活での大きな問題がもう一つあった。 トイレだ。
チャポン!という旧和式便所しか知らない僕は洋式トイレは初めて。

便器の上に乗っかって中腰で用を足す。
慣れない最初は滑って足を突っ込んでしまうこともあった。
親にはとても言えない。
フランスに着くまでずっとこの中腰スタイルが正しいと思っていた。
外人って難しい恰好をするんだな~と思っていた。

数十年経って日本の友人達とその話をした。
当時フランスのちょっとした家、あるいはホテルにはシャワーとトイレとビデがあった。
ビデの使用法がわからない僕は足を洗う物だと思っていた。
すると友人の一人がそこで顔を洗ったと言い、
もう一人はスーパーで買ったレタスをビデで洗って食べていたと言いだした。
中にはインスタント・ラーメンをそこの湯で茹でたと・・。
上には上がいるもんだ。

それにフランス船にはシャワーしかない。湯船につかるということができない。
毎日お風呂に入っていた僕には夏の海でシャワーだけというのは物足りない。

客室利用のルールで2等室の客は1等室には遊びに行けない。
しかし3等室には行ける。日本人の子供は僕と4歳のノンちゃんという目茶苦茶可愛い女の子!僕とノンちゃんは3等室で人気者でした。

現在、客船で旅行するのは時間のあるお年を召した方、あるいはハネムーン・カップルが多いようだが当時は大学生が多く、そのほとんどが3等室だった。
夢を持って海外に渡る青年たちです。少年よ大志を抱け!
(当時3等は飛行機の半値だった。中には4等と言うのが有って食事は出なく皆さん缶詰をたくさん買い込んで乗船していた)。

旗をなびかせ旋回する小さな船ちょうど高知の沖合いに近づいた時軍艦マーチが聞こえてきた。 甲板に出てみると、わがラオス号のそばで小さなトロール船が旗を靡(なび)かせその場でぐるぐる旋回している。

高速で急カーブした時の自動車のように船体が大きく傾き、今にも浸水しそうだ!中には大漁旗を振っている漁師もいた。あの1メートル以上もある旗を!

今の人達がその様子を見たら彼らをお調子者と言うかもしれない。
でも僕は目頭が熱くなった。

外国船に向かって戦争は負けても精神では負けていないぞ!と言っている?
いや、僕には海外で頑張って来い、俺達も頑張る!外人なんかに負けるな!
と聞こえて来た・・・。
幼くても耳ではなく心で感じていた!
数十年経った今でもそのシーンも音もはっきりと覚えている。

その後合計4隻のトロール船に出会ったが皆必ず軍艦マーチで見送ってくれた。何度も何度も旋回しながら。

しばらくすると自衛隊の潜水艦と交差した。
隊員が甲板に出て旗を振ってくれた。

1964年 、外国へ行くということは大変な事であった。



【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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